古典は、昔の人の話を知るためだけのものではありません。そこには、人を愛する心、苦しみ、葛藤、誇りといった、人間の根っこが描かれています。だからこそ古典を読むとき、人は「昔」を読むのではなく、「いまの自分自身」を読むことになる。日本文学特有の“説明しすぎない表現”を通して、古典がなぜ「時代を超えた鏡」となるのかを考えてみたいと思います。

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古典は過去の話ではない。いまを照らす鏡。
「古典」と聞くと、多くの人は、昔の物語や古い言葉、あるいは学校で勉強させられた難しい文章を思い浮かべるかもしれません。
けれど本来、古典というものは、過去を知るためだけにあるものではありません。
古典は、「いま」を照らす鏡です。
そこに描かれているのは、昔の人々の暮らしであり、喜びであり、悲しみであり、葛藤です。
けれど、それらは決して“昔だけのもの”ではありません。
人を好きになる心。
大切な人を失う悲しみ。
世の中への怒り。
生きる意味への問い。
誇りを持って生きたいという願い。
そうした人間の根っこの部分は、千年前も、いまも、ほとんど変わっていないのです。
だから古典を読むとき、人はそこに「昔の人」を見るのではなく、実は「いまの自分」を見ることができます。
古典が鏡だというのは、そういう意味です。
そして日本の古典には、もうひとつ大きな特徴があります。
それは、「説明しすぎない」ということです。
西洋文学や、それに影響を受けた現代文学では、場面の移動や人物の心理が、細かく丁寧に描かれることが少なくありません。
けれど日本文学では、そこをあえて語りません。
たとえば、川端康成 の『雪国』には、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
という有名な一文があります。
たったこれだけです。
けれど、この一文の中に、空気の冷たさも、窓の曇りも、列車の音も、主人公の心の揺れも、すべてが含まれています。
つまり、日本文学は「全部を説明しない」のです。
いわば、一節ごとに、蓋のついた箱が置かれているようなものです。
その箱を開けるかどうかは、読者に委ねられている。
だから同じ古典を読んでも、若い頃と、年を重ねてからとでは、まったく違うものが見えてきます。
失恋したあとに読む和歌は、若い頃にはわからなかった痛みを伴って胸に響きます。
子を持ってから読む物語には、それまで気づかなかった親の願いが見えてきます。
苦しい経験をしたあとに読む言葉は、まるで自分に向かって語られているように感じられることがあります。
こうした「読む人に委ねる書き方」の文化は、戦前戦中までの日本には確実に残っていました。
たとえば、石川啄木 の有名な歌。
はたらけど はたらけど 猶(なお)わが生活(くらし)
楽にならざり ぢつと手を見る
十代の中高生くらいでこの歌を学んでも、「なんのこっちゃ」。
結婚して子を持つようになると、「だよねー」。
中年になると、「そんな中でも、よく頑張ってきたな」。
老境に至ると、「何言ってんだ。そんなこと、あたりまえのことじゃ!」(笑)
つまり古典とは、「答え」を教えるものではなく、「問い」を差し出してくるものなのです。
そして、その問いに対する答えは、その時々の自分自身の中にあります。
だから古典は、読むたびに新しい。
何百年も読み継がれてきた理由のひとつが、そこにあります。
古典は、過去の遺物ではありません。
それは、時代を超えて、人の心を映し出す鏡です。
そしてその鏡に、いまの自分自身を映したとき、人は初めて、古典の本当の面白さに出会うのだと思います。
今日も良い一日を♪
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