苦難のない人生を願うのではなく、苦難の中でどう生きるのか。戦時中の国民学校の教科書に載っていた「三日月の物語」を現代文でたどりながら、山中鹿介の生涯に学ぶ「生きる姿勢」と「出口設計」について考えました。目先の成功を超えて、未来へ何を手渡すのか。その問いは、いまを生きる私たちにもまっすぐ返ってきます。

■はじめに──昔の教科書が教えていたもの
いまの時代、子どもたちは学校で何を学んでいるのでしょうか。
知識や技能、効率的な答えの出し方?
もちろんそれらは大切です。
けれど一方で、「どう生きるか」という問いに正面から向き合う機会は、以前より少なくなっているようにも感じます。
かつての教科書には、いま読むと少し驚くような物語が掲載されていました。
そこには、成功の方法や要領の良さではなく、
苦難にどう向き合うか、
そしてどのような心で生きるのかという、
人の根っこに関わる問いが、物語を通じてまっすぐに問いかけられていました。
今回ご紹介する「三日月の物語」も、そのひとつです。
戦時中の国民学校の教科書に掲載されていたこの物語には、山中鹿介(やまなかしかのすけ)という武将の生き様が描かれています。
そこにあるのは、単なる勇ましさや武勇の物語ではありません。
むしろ、どのような苦難の中にあっても、自らの役割を引き受け、未来へとつなごうとする姿勢が、ひとつのかたちとして示されています。
時代背景を切り離して読むことはできませんが、それでもなお、この物語がいまの私たちに問いかけてくるものがあります。
それは、「どのように生きるのか」という、ごく根源的な問いです。
以下に、戦時中の国民学校5年生(いまの小学5年生)の国語教科書にある「三日月の物語」という題を現代文にてご紹介します。
■「三日月の物語」
甚次郎(じんじろう)が兄に呼ばれて座敷へ行くと、そこには母もいました。
床の間には、すばらしく大きな鹿の角(つの)と三日月(みかづき)の前立(まえた)てのついた兜(かぶと)が飾(かざ)ってありました。
兄は、改(あらたま)った口調で言いました。
「甚次郎、
このかぶとは祖先伝来の宝、
これをおまえにゆずる。
十歳の時、軍(いくさ)に出て
敵の首を取ったほど強いおまえのことだ。
どうかりっぱな武士になり
家の名をあげてくれ」
甚次郎は、胸がこみあげるようにうれしくて、
「ありがたくちょうだいいたします」
といって頭をさげました。
母がそばから言いました。
「それにつけても御主君尼子(あまこ)家の
御恩を忘れまいぞ。
尼子家の御威光(ごいこう)は、
昔にひきかえておとろえるばかり。
それをよいことにして、
敵の毛利(もうり)が
だんだん攻め寄せて来ています。
成人したら一日も早く毛利を討って、
御威光を昔に返しておくれ」
甚次郎(じんじろう)の目は、いつのまにか涙で光っていました。
甚次郎はこの日から、山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)と名のり、心にかたく主家を興(おこ)すことを誓いました。
そして、山の端(は)にかかる三日月を仰(あお)いでは、
「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」
と祈りました。
*
それから数年が過ぎました。
尼子(あまこ)の本城である出雲(いずも)の富田城(とみたじょう)は、そのころ毛利軍に囲まれていました。
鹿介(しかのすけ)は、戦ってしばしば手がらを立てました。
彼の勇名(ゆうみょう)は、味方(みかた)のみか、敵方にも知れ渡りました。
敵方に、品川大膳(しながわだいぜん)という荒武者がいました。
彼は、鹿介(しかのすけ)をよい相手とつけねらっていました。
名を棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)と改(あらた)めて、折(おり)あらば鹿介(しかのすけ)を討ち取ろうと思っていました。
ある日のこと、鹿介(しかのすけ)が部下を連(つ)れて、城外を見まわっていますと、川をへだてた対岸から、鹿介の姿をちらと見た狼介(おおかみのすけ)は、割鐘(われがね)のような大声で叫びました。
「やあ、それなる赤糸(あかいと)おどしの甲(よろい)は、
尼子(あまこ)方の大将と見た。
鹿(しか)の角(つの)に三日月の前立ては、
まさしく山中鹿介(やまなかしかのすけ)であろう」
鹿介(しかのすけ)は、りんとした声で大音に答えました。
「いかにも山中鹿介幸盛である」
狼介(おおかみのすけ)は喜んでおどりあがりました。
「かくいうは石見(いわみ)の国の住人、
棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)。
さあ、一騎討の勝負をいたそう。
あの川しもの洲(す)こそよき場所」
こう言いながら、弓を小脇(こわき)にはさんで、ざんぶと水にとび込みました。
鹿介もただ一人、流れを切って進みました。
狼介が、弓に矢をつがえて鹿介をねらいました。
尼子方の秋上伊織介(あきあげいおりのすけ)がそれを見て、
「一騎討に、飛び道具とは卑怯(ひきょう)千万(せんばん)」
と、これも手早く矢をつがえてひょうと射ました。
狙(ねら)い違(たが)わず、狼介が満月のごとく引きしぼっ ている弓の弦(つる)を、ふつりと射切(いき)ると、味方(みかた)は「わあ」とはやしたてました。
狼介は、怒って弓をからりと捨て、洲にあがるが早いか、四尺(よんしゃく)の大太刀を抜いて斬りかかりました。
しかし鹿介の太刀風(たちふう)が更にするどく、いつのまにか狼介は切りたてられて、次第(しだい)に水際(みずぎわ)に追いつめられて行きました。
「めんどうだ。組もう」
こう叫んで、狼介は太刀を投げ捨てました。
大男の彼は、鹿介を力で仕(し)とめようと思ったのです。
二人はむずと組みました。
しばらくはたがいに呼吸をはかっていましたが、やがて狼介(おおかみのすけ)が満身の力で鹿介(しかのすけ)を投げ飛ばそうとしました。
鹿介は、これをじっとふみこたえたのですが、片足が洲の端にすべり込んでしまう。
思わずよろよろとしたところを、たちまち狼介の大きな体(からだ)が、鹿介の上へのしかかりました。
鹿介は組み敷かれました。
両岸の敵も味方(みかた)も、思わず手に汗をにぎりました。
すると鹿介(しかのすけ)がむっくと立ちあがりました。
その手には、血に染まった短刀が光っていました。
狼介(おおかみのすけ)の大きな体(からだ)は、鹿介の足もとにぐったりとしていました。
「敵も見よ、味方(みかた)も聞け。
現(あらわ)れ出(いで)た狼(おおかみ)を、
鹿介(しかのすけ)が討ち取ったなり」
鹿介の大音声は、両岸に響き渡りました。
こののち幾(いく)たびか激しい戦がありました。
さしもの敵も、この一城をもてあましたのですが、前後七年にわたる長い戦に、尼子方は多く討死(うちじに)し、それに糧食(りょうしょく)がとうとう尽きてしまいました。
城主の尼子義久(あまこよしひさ)は、涙をのんで敵に降(くだ)りました。
富田城には、毛利の旗がひるがえりました。
*
尼子の旧臣は、涙のうちに四散(しさん)しました。
鹿介(しかのすけ)は、身をやつして京にのぼりました。
戦国の世とはいえ、京の都では花が咲き、人は蝶(ちょう)のように浮かれていました。
そのうちに尼子の旧臣たちがおいおい都(みやこ)に集(つど)って来ました。
彼らは、鹿介を中心に主家の再興を企(くわだ)てました。
そのころ都(みやこ)のある寺に、品(ひん)のよい小僧(こぞう)さんがいました。
なんと、その小僧さんは、尼子家の子孫でした。
鹿介(しかのすけ)は、この小僧さんを主君と仰ぎました。
「尼子家再興のことは、わが年来の望みである」
小僧さんは、おおしくもこういって、衣(ころも)を脱ぎ捨て、尼子勝久(あまこかつひさ)と名乗りました。
時がやって来ました。
永禄(えいろく)12年6月のある夜、勝久(かつひさ)を奉(ほう)じる尼子勢は出雲に入り、一城を築いて三度ときの声をあげました。
この声が四方に呼び掛けでもしたように、今まで敵についていた旧臣が、続々と勝久のところに集まってきました。
諸城が、片端から尼子の手に返りました。
しかし富田城は名城であるだけに、なかなか落ちそうにありません。
その間に毛利の大軍がやって来ました。
毛利輝元(てるもと)を大将とし、吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)を副将として、1万5千の精兵が堂々と進軍して来たのです。
富田城がまだ取れないのに、敵の大軍が押し寄せたのです。
これでは味方(みかた)の勝利はおぼつきません。
しかし鹿介は腹をきめました。
すべての軍兵を率いて、富田城の南三里にある、布部山(ふべやま)にて敵を迎え討ちました。
味方(みかた)の軍は約七千です。
それは、まことに死物(しにもの)ぐるいの戦(いくさ)でした。
敵の前軍はしばしば崩(くず)れました。
しかし何といっても二倍以上の敵の数です。
新手(あらて)があとからあとから現れます。
さしもの尼子勢もへとへとにつかれ、多くの勇士は、無残(むざん)に枕を並べて討死(うちじに)しました。
勝ちほこった敵の大軍は、やがて出雲一国にあふれました。
勝久(かつひさ)は危(あやう)くのがれて、再び京都へ走りました。
*
それからまた幾年か過ぎました。
鹿介(しかのすけ)は、織田信長に毛利(もうり)攻(ぜ)めの志(こころざし)があることを知って、彼を頼りました。
鹿介を一目(ひとめ)見た信長は、この勇士の苦節(くせつ)に同情しました。
「毛利攻めのお先手(せんて)に加(くわわ)り、
もし戦功(せんこう)がありましたら、
主人勝久(かつひさ)に、
出雲一国をいただきとうございます」
鹿介の血を吐く言葉に、信長は大きくうなずいて見せました。
ついに再び時が来ました。
尼子方は秀吉の軍勢に加って、毛利攻めの先がけとなりました。
いち早く播磨(はりま)の上月(こうづき)城を占領し、ここにたてこもった2千5百の尼子勢は、ほどなく、元春(もとはる)・隆景(たかかげ)の率(ひき)いる7万の大軍にひしと取り囲まれました。
秀吉の援軍が今日来るか明日来るか、それを頼みに勝久は城を守りました。
毛利方の大砲を夜に乗じて奪(うば)い取って、味方(みかた)は一時気勢をあげました。
しかし援軍は敵にはばまれて近づくことができません。
7万の大軍に囲まれては、上月城はひとたまりもありません。
弓折れ矢尽きて、勝久はいさぎよく切腹することになりました。
「いたずらに朽(く)ち果(は)てたかも知れない私が、
出雲に旗あげし、
一時(いっとき)でもその領主となったのは、
まったくおまえの力であった」
勝久は、こういって鹿介に感謝しました。
鹿介は、男泣きに泣いて主君におわびをしました。
しかし彼はまだ死ねませんでした。
「尼子重代の敵である毛利を、
せめてその片われの元春を、
おのれそのままにしておけようか。
七難八苦はもとより望むところである。」
鹿介は主君に志を告げ、許しをこうてわざと捕らわれの身となりました。
*
鹿介は西へ送られました。
ここは備中(びっちゅう)の国、甲部川(こうべがわ)の渡しです。
天正6年7月17日、秋とはいえ、まだ烈しい日光が、じりじりと照りつけています。
川端の石に腰掛けて、来し方行く末を思いながら、鹿介はじっと水のおもてを眺めました。
燕(つばめ)が川の水すれすれに飛んでは、白い腹を見せて宙返りをしていました。
そのとき、突然、後から斬りつけた者がありました。
鹿介は、それが敵方の一人河村新左衛門(かわむらしんざえもん)であると知るや、身をかわして、ざんぶと川へ飛び込みました。
新左衛門も飛び込みました。
二人はしばし水中で戦いました。
重手を負いながらも、鹿介は大力の新左衛門を組み伏せました。
すると、これも力自慢の福間彦右衛門(ふくまひこえもん)が、後から鹿介のもとどりをつかんで引き倒しました。
七難八苦の生涯は34歳で終りを告げました。
甲部川の水は、この恨(うら)みも知らぬ顔に、今も悠々(ゆうゆう)と流れています。
月ごとに、あの淡(あわ)い三日月の影を浮かべながら・・・。
■物語の読みどころ──勇ましさの奥にあるもの
この物語を読むと、多くの人がまず心を動かされるのは、山中鹿介の勇ましさではないでしょうか。
一騎討ちに臨む姿、劣勢の中でもひるまず戦う姿、そして最後まで志を捨てない生き方。
そのどれもが、いかにも武士らしい、力強い姿として胸に迫ってきます。
もっというと、鹿介のすごさは「強かったこと」そのものよりも、
「自分の役割をやり抜く覚悟」にあったといえます。
主家が滅び、再興を目指して敗れ、それでもなお立ち上がる。
その繰り返しの中で、彼は一度も自分の志を手放していません。
注目すべきは、彼が三日月に祈った言葉です。
「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」
単なる決意表明ではありません。
これは苦難を自らの中に置こうとする覚悟です。
そこには「楽な道ではなく、果たすべき道を選ぶ」という、ひとつの生き方が表れています。
鹿介の逸話には、他にも次のようなものがあります。
ある日のこと、初陣(ういじん)を終えた2人の若者が鹿介の前で、
ひとりは
「敵に向かうと震えが生じて、
しっかり敵を見ることもできず、
討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」
と話したのだそうです。
別のひとりは
「自分は敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、
組み合った場所なども鮮明に覚えています」
と話したのだそうです。
2人が帰った後、鹿介は傍(かたわら)の人に、
「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。
後に話した若武者は、はなはだ心もとない。
もしかしたら他人のあげた敵の首を拾い取って
自分の手柄としたのではないだろうか。
さもなくば次の戦で討たれてしまうだろう」
と語りました。
はたして後日、その言葉のとおりとなったそうです。
鹿介のこの洞察は、現代にも通じます。
怖くて良いのです。だから負けないように頑張るのです。
怖くないなどというのは、嘘でしかない。
嘘を出発点にすれば、いっとき人気を博したとしても、後に必ず滅びる。
あらゆる人生の場において、言えることです。
この物語は、「恐れを知らぬ英雄」の話ではありません。
むしろ「恐れや苦しさを抱えながら、それでもなお進む人間の姿」を描いた物語だといえます。
これは、与えられた状況の中で自分の役割をしっかりと受け止めていくという、人の覚悟です。
■生きる姿勢──苦難から逃げない人が本物になる
この物語が私たちに問いかけてくるものは、「どう生きるか」という一点に尽きるのではないかと思います。
鹿介の生涯を振り返ると、それはどうみても順風満帆な人生とはいえないものです。
主家は滅び、再興を目指しても敗れ、仲間は散り、最後は志半ばで命を落としました。
結果だけを見れば、決して「成功した人生」とは言い難いかもしれません。
けれど、それでもなお、彼の名は今に伝わっています。
どうしてでしょうか。
それは彼が、どのような状況に置かれても、自らのなすべきことから逃げなかったからです。
苦難を避けるのではなく、その中に身を置き、自分の役割を果たそうとし続けた。
その姿勢こそが、人の心に残るのです。
初陣の若武者の話は、そのことをよく示しています。
恐れで震えたと語った若者を、鹿介は将来有望と見ました。
そこにあるのは、「恐れを知らないこと」ではなく、
「恐れを自覚しながらも向き合うこと」。
それこそが、本物の強さであると、物語は教えてくれているように思います。
人は誰しも、苦しさや不安を感じます。
むしろ、それを感じないほうが不自然です。
にもかかわらず、「怖くないふり」をしたり、「大丈夫なふり」をしたりするところから、どこかに無理が生じていきます。
本当に大切なのは、苦難がないことではありません。
苦難に直面したときに、それをどう受け止め、どう向き合うかにある。
鹿介が三日月に祈った「七難八苦」は、苦しみを求める言葉ではなく、逃げずに引き受ける覚悟の表れです。
だからこそ、その生涯は艱難に満ちながらも、人の心を打つものとなっている。
生きる姿勢とは、特別な能力や才能のことではありません。
日々の中で、自分に与えられた役割や状況から目を逸らさず、ひとつひとつ丁寧に向き合っていくこと。その積み重ねの中にこそ、人としての軸が育っていくのだと思います。
苦難から逃げない人が、本物になる。
それは決して精神論ではなく、長い歴史の中で繰り返し示されてきた、ひとつの事実なのだと思います。
■おわりに──人生は自分の代で完結しない
ここまで見てきたように、山中鹿介の生涯は、苦難に満ちたものでした。
そして結果だけを見れば、志を完全に成し遂げたとは言い難い人生でもあります。
けれど、それでもなお、彼の生き方は「敗北」としては語られていません。
なぜでしょうか。
それは、彼が自分の人生の「結果を閉じていなかった」ところにあるように思います。
鹿介は、主家の再興という志を掲げ続けました。
たとえ自分の代でそれが成らなかったとしても、その流れを絶やさないことを選び続けました。
その働きが、後の時代への流れを生みました。
歴史を振り返ると、人の働きは必ずしもその人の生きている間に実を結ぶとは限りません。
むしろ、本当に大きな働きほど、時間をかけて、次の世代、そのまた次の世代へと受け渡されていくものです。
鹿介は志半ばで倒れました。
しかし、その志は途切れることなく受け継がれ、やがて形を変えながら、歴史の中に残っていきます。
ここで、少し後日談に触れておきます。
上月城陥落のとき、尼子の庶家の亀井茲矩(かめいこれのり)は、秀吉に従っていたために難を逃れました。
関ケ原では家康の東軍に参加。
以後、現在の鳥取県鳥取市鹿野町あたりの鹿野藩3万8000石(後に加増されて4万3000石)の大名となり、その後島根県鹿足郡津和野の藩主となって幕末まで家を繁栄させ、明治の版籍奉還後も、伯爵として立派に家を繋げています。
また山中鹿介の嫡子の山中幸元(ゆきもと)は、父の死後、鴻池直文(こうのいけなおふみ)と名を改めて、同地で酒造業を始めました。
当時の日本酒は白濁した濁酒だったのですが、ある日、叱られた手代が腹いせに濁酒の樽にかまどの灰を投げ入れた。
すると偶然、透明芳醇な清酒ができ、これが日本酒の清酒のはじまりになります。
鴻池直文は、その後、清酒の江戸回漕業(かいそうぎょう)に乗り出し、大儲けして大商人となり、その豊富な資金で大名貸の両替商となり、なんと幕府及び全国110藩(全藩の約4割)に融資を行うという日本屈指の鴻池財閥を形成していきます。
そして戦後の財閥解体後も、鴻池組となって現在に至っています。
ここに、『出口設計』という視点があります。
出口設計とは、自分がどう成功するかを考えることではありません。
自分の働きが、その先にどのような影響を残すのか。
どのように次の世代へとつながっていくのかを、
見据えて生きることです。
いまの時代は、「いま結果が出るか」「すぐに報われるか」に目が向きがちです。
けれど、人生はそれだけで測れるものではありません。
鹿介のように、自分の代では完結しない時を生きるとき、
人の行いはまったく違った意味を持ち始めるのです。
たとえ自分には思うような結果が出なかったとしても、
その行いの一つひとつが、確実に未来へと受け渡されていくのです。
このように考えるとき、私たちの生き方は、より力強いものとなります。
人生は、自分の代だけで完結するものではありません。
目先の成功を追うことも大切です。
けれど、それだけにとどまらず、もう一歩先を見たい。
『自分の生き方が、どのような未来をつくるのか』
その出口の問いを持ちながら歩むとき、私たちの人生は、より確かなものになっていきます。
出口が決まれば、踏み出す方向が決まります。
たとえそれが艱難辛苦を伴うものであったとしても、その一歩を踏み出した時点で、人生はすでに未来へとつながり始めているのです。


