誰かが見ているときには、きちんと振る舞える。では、誰も見ていないときはどうでしょうか。
『古事記』には、「見ないでほしい」という約束を守れなかったことで、関係が大きく変わってしまう物語が繰り返し描かれています。また儒教の『大学』には、「故に君子は必ず其の独を慎むなり」という「慎独」の教えがあります。
誰も見ていないところで、自分は何を選ぶのか。そこには、自分への信頼だけでなく、人と人との信頼、そしてRelation(関係性)を育てる大切な鍵があるのかもしれません。

今日のひとこと・姿勢は、誰も見ていないときに、何を大切にするかで決まる。

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姿勢は、誰も見ていないときに、何を大切にするかで決まる。

人は、誰かに見られているとき、たとえば挨拶をするとき、約束を守るとき、仕事を丁寧にするとき、困っている人に親切にするときなどは、案外、それなりに振る舞えるものです。
周囲の目があるときには、それなりに「ちゃんとしよう」という気持ちも働くものです。

逆に誰も見ていないときには、その人の本当の姿勢が現れます。
道に小さなゴミが落ちている。
誰も見ていない。

約束した仕事に、少しくらい手を抜いても気づかれない。
誰も見ていない。

誰かの悪口を言っても、本人には届かない。
誰も見ていない。

問題は、そういうときに、自分が何を選ぶのかにあります。
なぜならそこに、その人の本質が現れるからです。
だからこそ、誰も見ていないときに、自分の姿勢を問う。
「誰かに褒められるからする」のでも、
「叱られるからしない」のでもありません。
自分で選ぶのです。
それが「姿勢」なのだと思います。

不思議なことに、誰にも見られていないところで積み重ねた姿勢は、やがて日常の言葉や表情、仕事ぶり、人との接し方に自然と現れてくるものです。
そして、誰にも見られていないときの自分の姿勢は、その人自身にとっての「自分への信頼」にもなります。

逆に、人前の体裁だけ整えていても、長い時間の中では、その人が何を大切にしているのかは、周囲に伝わってしまうものです。

もちろん、人前で形を整えることも大切です。
けれど、それ以上に、日本人が大切にしてきたのは、
誰も見ていないところでも、自らを整えることにあります。

『古事記』に、イザナミが夫のイザナギに、
「黄泉の神と相談してくるので、その間、私を見ないでください」と告げた話があります。
ところが、なかなか戻ってこない。
イザナギは待ちきれず、櫛の歯を折って火を灯し、イザナミの姿を見に行きます。

そこに、イザナギを監視する者はいません。
「見たら罰するぞ」という警察もいません。
ただ、二人の間に交わされた約束だけがあります。

つまり、ここでイザナギは、誰も見ていないところで、「約束をどれだけ大切にしているか」が問われたのです。

結果、イザナギとイザナミは永遠の別れを迎え、それまで二柱で行ってきた国生み・神生みも、ここで終わりを告げることになります。

『古事記』には、もうひとつ、よく似た場面が出てきます。
山幸彦と豊玉毘売の出産の場面です。

妻の豊玉毘売は、出産に際して、
「本来の姿になりますから、どうか私を見ないでください」と頼みます。
ところが山幸彦は、やはり見てしまう。
すると豊玉毘売は恥じて、海へと帰ってしまわれます。

両者は、
「見ないでほしい」と託された信頼を、相手が見ていない場所で守れるか。
という同じ構造の神話になっています。

『古事記』が、このモチーフを繰り返していることは、とても興味深いことです。
現代風にいえば、姿勢とは「他人からどう評価されるか」ではなく、
相手がそこにいなくても、その人との約束や関係を大切にできること。
このことを『古事記』が、後世の人々に伝えようとしたのかもしれないからです。

約束は「物」ではありません。
二人のあいだに生まれる Relation(関係性) です。

そして、そのRelationが本物かどうかは、相手が目の前にいるときより、
むしろ相手がいないときにどう振る舞うかによって試されます。

『古事記』は「立派な人はこうしました」と教訓を押しつけようとはしていません。
むしろ、
約束を守れなかった結果、関係が壊れてしまう姿を物語として見せている。
そこが大切なのだと思います。

後世、日本に入ってきた儒教にも、これとよく似た教えがあります。それが『大学』にある、
「故君子必慎其独也」
です。
「故に君子は必ず其(そ)の独(ひとり)を慎(つつし)むなり」と読み下します。

ここから生まれたのが「慎独」という言葉です。
誰かに見られているから自らを正すのではなく、
誰も見ていないときであっても、自分自身を欺くことなく、自らを慎む。

『大学』は、その直前に「毋自欺也(自ら欺くこと毋(な)かれ)」と説かれています。
つまり、誰も見ていなくても、自分だけは、自分が何をしたかを知っている。
だからこそ、自分自身を欺かない。
それが「慎独」です。

こうして『古事記』や『大学』が述べていることは、
単に、自分を律せよというだけではありません。
見えないところでも、自分を欺かず、関係を大切にする。

その積み重ねが自分への信頼となり、同時に人からの信頼となって、人と人との結びを育てていくのではないでしょうか。

姿勢は、人に見せるための形ではありません。

姿勢とは、
「自分が、何を大切にして生きるのか」
という問いに対して、自分自身の毎日の小さな選択で答え続けるものです。

姿勢とは、誰も見ていないときに、何を大切にするかで決まる。

今日もまた、誰にも見えない小さなところから、未来がつくられていきます。

——今日も良い一日を♪

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