6月18日は、沖縄戦において、ひめゆり学徒隊に解散命令が下された日です。
しかし、その「解散」は、決して救いではありませんでした。
安全な避難先もなく、十代の少女たちは出口のない戦場へ放り出されたのです。
本稿では、ひめゆり学徒隊をはじめとする沖縄の女子学徒隊の歩みを振り返りながら、「出口のない戦い」がなぜ悲惨を生むのか、そして私たちは子や孫にどのような未来を手渡すべきなのかを考えます。

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一、六月十八日、ひめゆり学徒隊解散の日
一日遅れになってしまいましたが、6月18日は、沖縄戦において、ひめゆり学徒隊に解散命令が出された日です。
昭和20年、1945年の出来事です。
この日を、私たちは単なる歴史上の日付としてだけでなく、十代の少女たちが、出口のない戦場のただ中に放り出された日として記憶したいと思います。
ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちによって編成されました。
いまでいえば高校生くらいの年齢の女学生たちです。
彼女たちは兵士ではありません。
けれど沖縄戦の激化とともに、看護要員として動員され、負傷兵の看護、手術の補助、水くみ、食事の世話、遺体の処理など、あまりにも過酷な任務にあたることになりました。
本来、十代の子どもたちは、学び、語らい、未来に胸をふくらませる時期です。
まして女学生たちは、日々の暮らしの中で、友と笑い、家族に守られながら、大人へと成長していくはずの存在でした。
その少女たちが、砲弾の飛び交う壕の中で、傷ついた兵士たちのうめき声を聞き、死と隣り合わせの日々を送らなければならなかったのです。
六月十八日に出された解散命令は、一見すれば、彼女たちを軍の任務から解き放つもののように見えます。
しかし実際には、その時点で沖縄の戦況はすでに極限に達していました。
安全な帰り道があったわけではありません。
避難できる場所が用意されていたわけでもありません。
軍の組織から離れた少女たちは、砲火の中を、自分たちの判断で逃げるしかなかったのです。
つまり、その「解散」は、救いの出口ではありませんでした。
むしろ、出口を失った戦場に、少女たちだけを投げ出すことでもありました。
ここに、沖縄戦の悲劇があります。
そして同時に「出口のない戦い」が、どれほど弱い立場の人々に悲惨を押しつけるかという、重い教訓があります。
戦いが始まるとき、人々は勝利を語ります。
正義を語ります。大義を語ります。
しかし、終わらせ方を見失った戦いは、最後には守られるべき子どもたちまでも、戦場の中にのみ込んでしまうのです。
だからこそ、六月十八日という日を、私たちは忘れてはならないのだと思うのです。
それは、ひめゆり学徒隊の少女たちを悼む日であると同時に、二度と十代の子どもたちを、まして女子たちを、戦禍の苦しみに遭わせてはならないと誓う日でもあるからです。
二、戦場に立たされた少女たち
沖縄戦において、戦場に立たされた少女たちは、ひめゆり学徒隊だけではありません。
ひめゆりのほかにも、白梅学徒隊、ずゐせん学徒隊、積徳学徒隊、梯梧学徒隊、なごらん学徒隊など、多くの女子学徒隊が存在しました。
彼女たちは、それぞれ異なる学校に通う女学生たちでしたが、戦局の悪化とともに、次々に看護要員として動員されていきました。
ここで、あらためて考えたいことがあります。
彼女たちは本来なら、学校で学び、友と語り合い、時に恋に胸をときめかせ、将来の夢を思い描いていたはずの年頃です。
家に帰れば、母の作る食事を囲み、家族と笑い合う。そんな、ごく当たり前の日常の中にいた少女たちです。
しかし戦争は、その「当たり前」を容赦なく奪いました。
白い制服に身を包み、ノートを開いていたはずの手は、包帯を巻き、血を拭い、重傷兵を支える手へと変わりました。
本を抱えていた腕は、担架を担ぎ、水桶を運ぶ腕へと変わりました。
未来を語るはずだった口は、苦しむ傷病兵を励ます言葉を紡ぐ口になりました。
戦争が恐ろしいのは、人を傷つけることだけではありません。
本来、その人が生きるはずだった時間、その人が歩むはずだった未来までも、根こそぎ奪ってしまうことです。
特に、社会の中で本来守られるべき子どもたちや若者たちが、その犠牲を引き受けるようになったとき、やむを得ないことであったとはいえ、文明が大きく歪み始めるのです。
少女たちが戦場に立たされる社会は、決して健全な社会ではないと思います。
それは、守るべき順序が崩れた社会だからです。
大人が守るべきものを守りきれなくなった社会だからです。
だから、沖縄戦における女子学徒隊の存在を、私たちは単なる戦争の悲話として語ってはならないと思います。
彼女たちの献身は尊い。
けれど同時に、その尊さを称えるだけで終わってしまえば、本当に見るべきものを見失います。
問うべきは、なぜ十代の少女たちが、その場所に立たなければならなかったのか、なのです。
三、看護の現場は、この世の地獄だった
彼女たちが立たされていた看護の現場とは、どのような場所だったのでしょうか。
「野戦病院」と聞くと、設備の整った医療施設を思い浮かべる方もいることと思います。
けれど、沖縄戦における病院の多くは、そのようなものではありません。
実態は、山肌や丘陵に掘られた壕、あるいは自然洞窟です。
床も壁も天井も、むき出しの土と岩でした。
そこには湿気がこもり、空気は重く、虫が這い回っていました。
近くに砲弾が落ちれば、轟音とともに土砂や石が降り注ぎました。
そんな場所が、彼女たちが寝起きし、また日々の看護を行う現場でした。
そこへ、前線から次々に重傷兵が運び込まれてきました。
日本軍では、少しでも動ける者は再び戦線に戻りました。
だから病院壕に来るのは、すでに戦闘能力を失った重傷者たちでした。
爆風で腕や脚が潰れた者。
全身に破片が刺さった者。
激しい出血で意識が朦朧としている者。
傷口が化膿し、膿と血の匂いが壕に充満している者。
少女たちが向き合ったのは、その現実でした。
彼女たちの仕事は、単に「看護」と呼べるような生易しいものではありません。
負傷兵の体を支え、包帯を替え、水を運び、食事を作る。
排泄物を処理し、傷口にわいたウジ虫を取り除く。
手術の補助をし、切断された手足を壕の外へ運ぶ。
時には、伝令として砲弾の飛び交う外へ走ることさえありました。
いまでいう高校生くらいの年齢の少女が、毎日、死と隣り合わせの空間で、うめき声と血と腐臭の中に身を置き続けたのです。
想像を絶する世界です。
しかし、もっと過酷だったのは、肉体的な苦労だけではありません。
目の前の兵が、「痛い、助けてくれ」と苦しんでいる。
それを励まし、寄り添い、必死に看護する。
けれど、その命が助からないことを、彼女たちは知っていたのです。
救いたいのに、救えない。
その無力感こそ、彼女たちの心を最も深く傷つけたのではないでしょうか。
看護は、本来、人を生へ導く営みです。
しかし戦場では、その看護の現場そのものが、死の入口でした。
そこに、戦争の残酷さがあります。
文明がどれほど進歩しようとも、戦争が始まれば、人間は簡単にこの世の地獄を作り出してしまうのです。
四、「解散」が意味したもの
やがて、沖縄戦は最終局面を迎えました。
圧倒的な物量をもつ米軍の攻勢の前に、日本軍は次第に組織的な戦闘能力を失っていきました。
防衛線は崩れ、壕も次々に包囲され、もはや野戦病院そのものを維持することが困難になっていきました。
そうした中で、各学徒隊に次々と下されたのが、「解散命令」でした。
その象徴的な日が、ひめゆり学徒隊に命令が出た6月18日です。
ひめゆり学徒隊は、6月18日。
白梅学徒隊は、6月4日。
ずゐせん学徒隊は、6月19日。
それぞれ、軍から解散が命じられました。
「解散」と聞けば、多くの人は、任務を終えて家に帰ることを想像するかもしれません。
しかし、沖縄戦における解散は、そのようなものではありません。
彼女たちに、安全な避難場所が用意されていたわけではありません。
帰る家が残されていたわけでもありません。
護衛がついたわけでもなければ、移動手段があったわけでもありません。
解散とは、事実上、
「ここから先は、自力で生き延びなさい」
という意味でした。
しかも、壕の外は地獄の戦場でした。
砲弾が絶え間なく降り注ぎ、機銃掃射が大地をえぐっていました。
隠れる場所もない。
水も食料もない。
逃げようとしても、どこへ逃げればよいのかすら分からない。
昨日まで、傷病兵を支えていた少女たちは、その瞬間から、自らが生きるか死ぬかの極限状態へ放り込まれたのです。
ここに、戦争のもうひとつの残酷さがあります。
戦いが長引き、出口を失ったとき、最初に守れなくなるのは、弱い者です。
つまり、子どもたちであり、女性たちです。
それは、本来、最後まで守られるべき人たちです。
戦場では、理想も正義も、しばしば極限状況の中で押し流されます。
そして最後には、最も力の弱い者が、そのしわ寄せを一身に引き受けることになるのです。
それが、「出口のない戦い」です。
戦争の恐ろしさは、戦いが始まることだけではありません。
終わらせ方を失うことにあります。
どう終えるのか。
何を守って終えるのか。
誰を生かして次の時代へつなぐのか。
その視点を失った戦いは、結果として、悲惨しか生まないのです。
ひめゆり学徒隊の「解散」は、そのことを、私たちに痛いほど教えているのではないでしょうか。
五、出口のない戦いは、悲惨を生む
私は、戦いの本質的な問題は、入口よりも「出口」にあると思っています。
戦いを始める理由は、それぞれの立場の人が、それぞれに言います。
守るためだ、正義のためだ、理想のためだ、平和のためだ等々。
しかし、どれほど立派な大義を掲げたとしても、出口が見えていなければ、その戦いはやがて人間を追い詰めることになるのです。
終わり方が見えない。
勝利条件が曖昧になる。
撤退の判断ができない。
守るべき優先順位が失われる。
そうなると、戦いは次第に自己目的化していきます。
最初は何かを守るために始まったはずの戦いが、いつの間にか「戦い続けること」そのものが目的になってしまうのです。
沖縄戦がいいとか、悪いとか言っているのではありません。
私たちがこの戦争から、「出口のない戦いの恐ろしさ」も學ぶ必要があることを申し上げています。
なぜなら、出口設計のない戦いで、最大の犠牲を払うのは、指導者でも、戦略を論じる人でもなく、常に現場の人々であるからです。
ひめゆり学徒隊の少女たちをはじめとする女子学徒たちは、その現実を私たちに突きつけているように思うのです。
戦いの出口を見失ったとき、最後に犠牲となるのは、未来そのものです。
なぜなら、子どもたちこそ、未来だからです。
だから私たちは、戦いの入口だけを論じてはならない。
賛成か反対か。
右か左か。
正義か悪か。
あえて言ってしまうならば、そんなことは「どうでもいい」のです。
本当に問うべきは、
最後にみんなが笑顔になれるか。
ただ、その一点です。
戦いの先に、守りたかったものは残るのか。
次の世代へ、希望を手渡せるのか。
その視点を失えば、どんな戦いも、やがて悲惨へと向かうのです。
だからこそ私たちは、未来を担う子どもたちのために、出口を見据える大人でなければならないのです。
六、終章 — 子や孫に、どんな未来を遺すのか
ここまで、ひめゆり学徒隊をはじめとする沖縄の少女たちらの歩みを見てきました。
そこから私たちが受け取るべきものは、単なる悲しみでも、過去への感傷でもありません。
未来への責任です。
二度と、十代の子どもたちを戦禍に立たせてはならない。
まして、未来ある女子たちを、看護や献身、美談や精神論の名のもとに戦場へ送ってはならない。
これは、右か左かという思想の問題ではありません。
保守か革新かという立場の問題でもありません。
これは、人として、社会として、国家として共有すべき、
「最低限の決意」
なのです。
その決意は、単なる願いや祈りだけで実現するものではありません。
もちろん平和を願うことは大切です。
けれど「願えば叶う」ほど、世界は残念ながらやさしくありません。
歴史が示しているのは、平和とは、ただ与えられるものではなく、
「守らなければ失われる」
という現実です。
守るとは、戦うことばかりを言うのではありません。
守るとは、戦わないために備えることも、また戦いなのです。
戦争を起こさせないために、現実を直視すること。
力の均衡を軽んじないこと。
理想だけでなく、現実の構造を理解すること。
そして何よりたいせつなことは、
「出口を見据えて判断すること」
にあります。
この選択をした先に、どんな未来があるのか。
その判断は、誰を守り、誰を傷つけるのか。
子どもたちに、どのような時代を手渡すことになるのか。
そこまで考えてこそ、「未来に責任を持つ大人」といえるのだと思います。
私たちが子や孫に遺したいものは、出口のない混乱ではありません。
分断でも憎しみの連鎖でもありません。
遺したいのは、「未来への希望」です。
もし、戦いがなく、彼女たちが生き延び、安心して学び、働き、恋をし、家庭を築き、子を育て、老いてゆけていたなら。
そうした社会を築くことこそ、いまを生きる私たちの責任です。
だから、ひめゆりの少女たちらの御魂に、誓いたいのです。
「皆さんの尊い犠牲のおかげで、
私たちはいま、
こんなに素晴らしい世界を築くことができました」
このように報告できる時代を、きっと築いていきます、と。
過去を悼むだけで終わらない。
過去から學び、未来を整える。
その営みの先にこそ、
子や孫に胸を張って手渡せる未来がある。
私は、そう信じているのです。
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