人はそれぞれ違います。考え方も、感じ方も、得意なことも違う。けれど私たちは、ときにその「違い」をなくすことが、仲良くすることだと思ってしまいます。若い頃、私はある新入社員を「使い物にならない」と思ったことがありました。ところが上司から、まったく別の観測点を教えられます。彼は何も変わっていないのに、私の目に映る彼は一変しました。違いは、本当に対立の原因なのでしょうか。今日は「結び」の本当の力について考えます。

今日のひとこと・結びは、違いをなくすことではなく、違いがあるからこそ生まれる新しい力。

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結びは、違いをなくすことではなく、違いがあるからこそ生まれる新しい力。

「仲良くしましょう」と言われると、私たちはなんとなく、「相手に合わせなければならない」とか、「違う意見を言わないほうが得」とか、あるいは「みんな同じ考えになったほうがいい」と思ってしまうことがあります。

本当にそうでしょうか。
もし、みんながまったく同じ考えで、同じ能力を持ち、同じことしかできなかったら、それではまるで金太郎飴です。
あるいは誰もが上の言うとおりにしか思考できないなら、それはファシズムです。
それで良いのでしょうか。

たとえば料理。
塩と砂糖は違います。
醤油と味噌も違います。
野菜と肉も違います。
だからといって、
「みんな仲良くするために、同じ味になりましょう」
となったら、これは料理になりません(笑)。

違うままだからこそ、組み合わせることで新しい味が生まれる。

人と人との「結び」も、それに似ているのではないでしょうか。

夫婦もそうです。
考え方も違う。
感じ方も違う。
得意なことも違う。
だから、ときにすれ違います。

「どうして分かってくれないんだ」と思うこともあります。
けれど、もし最初から何もかも同じ二人だったら、そもそも二人でいる意味も、ずいぶん小さくなってしまうのかもしれません。
違う二人が出会うからこそ、自分一人では見ることのできなかった世界を見ることができます。

会社でも同じです。
営業の得意な人がいる。
数字に強い人がいる。
人の話を聞くのが上手な人がいる。
細かなところによく気づく人がいる。

誰か一人を「正解」にして、
「全員、この人と同じになりなさい」としたら、組織はむしろ弱くなります。

社会人なりたての頃、入社半年目に、「新人教育主任者」という肩書をもらいました。
会社が急拡大し、次々と中途入社の新入社員が入ってくる。
そんな時代でした。
それで、新入社員の教育係をやりなさいと命ぜられたのです。

一生懸命にやらせていただきました。
そんな新入社員の中に、ものすごくおとなしい人がいました。
仮にA君とします。
彼は、仕事は丁寧なのですが、遅い。
正直、営業では使い物にならないようなタイプでした。

私も若かったから、その子をよく叱りました。
「なんでこんなことができないんだ!」
「もっとものごとをはっきり伝えなきゃだめじゃないか!」
でも彼は変わりません。
だから、「使い物にならない」と思いました。

そんなある日、上司に呼ばれました。
「君はA君のことを、使い物にならないと思っているね」
「はぁ、そういうわけでは・・」
「彼はねえ、もともと経理畑の人なのだよ」
「そうなんですか?」
「これを見たまえ。彼が書いた支店の財務帳票だよ。どうだい?」
その帳票には、ものすごく丁寧で、几帳面なきれいな字で書いた数字が並んでいました。
「すごく綺麗に書かれていますね」
「そうだろ?間違いもひとつもないんだ。
 人には適材適所というものがある。
 君に彼を預けたのは、彼に、彼が育ってきた世界とは
 別な世界があることを見せようと思ったからだ。
 そろそろ異動させたいと思うのだけど、いいかい?」

A君は何ひとつ変わっていません。
ただ、観測点が変わったら、欠点に見えていたものが能力として立ち上がったのです。

違う人たちが、それぞれの持ち味を活かしながら、ひとつの出口へ向かう。
そこに、一人では生み出せなかった力が生まれます。
これが「結び」なのだということを、このとき学ばせていただきました。

大切なことは、
違いを消すことではなく、違いを活かすこと。

「和」という言葉も同じです。
「和」というと、みんなが同じ意見になって、争わず、波風を立てないことだと思われがちです。

けれど、聖徳太子の十七条憲法には、
「上和下睦、諧於論事」とあります。
上の者も下の者も和らぎ睦み、そしてよく話し合って物事を整えていきなさい
という意味です。

意見が違うから、話し合うのです。
最初から全員が同じなら、話し合いの必要さえありません。

「和」というのは、違いをなくすことではない。
違いを持った人々が、ともにより良い答えを探していく姿勢でもある。
そのように思います。

もちろん、違えば何でもよいということでもありません。
違いを武器にして相手を攻撃したり、
「自分は自分だ」とばかり、相手との関係を考えなくなったりすれば、それは結びにはなりません。

必要なことは、
私は私である。
あなたはあなたである。
では、その二人の「あいだ」に、どういう橋を架けることができるだろう
、という問いです。

ここにRelationという観測点があります。

Relationは、私を消して相手に合わせることではありません。
相手を消して、自分の考えに従わせることでもありません。

「私」と「あなた」が、ともに主体として存在することです。
そして、その「あいだ」に、一人では存在しなかった何かを育てていく。
それが「結び」です。

一本の糸だけでは、布にはなりません。
縦の糸と横の糸。
向きの違う糸が交わるから、布になります。

縦糸が横糸になってしまう必要はありません。
縦糸は縦糸のまま。
横糸は横糸のまま。

違う方向を向いているからこそ、互いを支え合い、丈夫な布になるのです。

人間社会も、同じではないかと思います。
子どもと大人。
若者と高齢者。
男性と女性。
都会に暮らす人と地方に暮らす人。
違う仕事をする人。
違う経験をしてきた人。

違うからこそ、それぞれに見えている世界があります。
自分には見えていなかったものを、誰かが見ている。

だから、「あなたは間違っている」で終わるのではなく、
「あなたには、そう見えているんですね」
と、いったん相手の観測点へ動いてみます。
そうすると、自分一人では見えなかった世界が立ち上がることがあります。

昨日まで「対立」にしか見えなかった違いが、
新しい可能性を生み出す材料に変わることがあるのです。

もちろん、すべての違いを無理に結ぶ必要はありません。
結ぶことで互いを傷つけあうのなら、距離を取ることが必要な場合もあります。

そんなときは、距離を取ります。
完全に相手の存在を否定するのではなく、必要最低限のRelationだけを残す。
昔の「村八分」という言葉にも、火事や葬式のような非常時まで助け合いを断つわけではなかった、という説明があります。
結びとは、いつでも、誰とでも、同じ距離で付き合うことではないのです。

要するに、「結ぶこと」そのものが目的ではないのです。
その結びによって、最後にどんな未来をつくりたいのかにこそ、結びの意味があります。
つまり、これが「出口設計(Exit Design)」です。

違いをなくせば、対立は減るかもしれません。
けれど同時に、違いから生まれる可能性まで失ってしまいます。

だから、「違うから困る」ではなく、
**「違うからこそ、二人のあいだに何が生まれるだろう」**と問いを置くのです。

ひとりではできなかったことが、二人ならできる。
二人ではできなかったことが、みんなならできる。
しかも、誰かが誰かになる必要はありません。
私が私のまま、あなたがあなたのまま、ともに未来をつくる。

それが「結び」の力なのだと思います。

結びは、違いをなくすことではありません。
違いがあるからこそ、一人では存在しなかった新しい力が、二人の「あいだ」に生まれるのです。

——今日も良い一日を♪

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