7月7日は、昭和12年に盧溝橋事件が起きた日です。この事件は一般に「日中戦争のきっかけ」と説明されますが、用語としても、歴史認識としても、そこには大きな問題があります。今回は、当時の正式呼称と、西安事件以後の国共の動き、そして日本側が見誤ったものについて考えてみたいと思います。

盧溝橋事件

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以下は、foomiiに書いた記事です。
https://foomii.com/00333/20260707100749154931

7月7日は、昭和12年に盧溝橋事件が起きた日です。この事件は一般に「日中戦争のきっかけ」と説明されますが、用語としても、歴史認識としても、そこには大きな問題があります。今回は、当時の正式呼称と、西安事件以後の国共の動き、そして日本側が見誤ったものについて考えてみたいと思います。

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盧溝橋事件について、最初に詳しくブログに書いたのは、9年前の2017年7月のことです。
本稿では、いま中国と呼ばれているエリアのことを、当時の呼称に従って支那と表記します。

さて、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)というのは、昭和12(1937)年7月7日の北京の西南にある盧溝橋で起きた日本の陸軍と支那国民党軍との衝突事件です。
この事件について、近年の教科書などでは、「この事件が日中戦争のきっかけとなった」などと書いてあります。
これは2つの点で間違いです。

■ 第一 用語の間違い

「日中戦争」という用語が間違いです。
日本語に「日中戦争」という用語はもともとありません。
それは支那事変であり、大東亜戦争です。

「大東亜戦争」は、昭和16年12月12日に内閣決議で決議された用語です。
翌昭和17年2月17日には、前に閣議決定されていた「支那事変」という呼称も、「大東亜戦争」に含めると閣議決定されています。

「支那事変」の用語は、昭和12年(1937年)9月2日の「事変呼称ニ関スル件」という閣議決定に基づきます。
このとき「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」と定められています。
それ以外に、わが国がこの事件について取り決めた呼称はありません。
従って、「日中戦争」という用語は、単なる俗称ということになります。
いまでは政治の世界でも、公然とこの用語が口にされていますが、政治家たるもの、あらためて認識を改めていただきたいと思います。

そもそも「戦争」と「事変」は違います。
「戦争」は、国対国が、戦時国際法に基づき、ルールを持って行うものです。
「事変」は、片方が国ではなく、地域であったり団体であり、かつ、警察力で鎮(しず)めることができない規模の事件や騒動」に用いられる用語です。

昭和12年から昭和20年にかけて、支那に法と行政組織を持ち、諸外国から承認された国はありません。
汪兆銘の率いる南京政府はあり、こちらは法も行政組織も有していましたが、国際的承認が不十分でした。
一方で、米英が後押しした蒋介石率いる国民党は、単なる軍閥であって、そこに法も行政組織もありません。従って国とは言えないし、当時の日本は国民党を、あくまで軍閥と認識しています。
その軍閥に対してわが国が汪兆銘の南京政府とともに、戦闘になったのが「支那事変」であり、蒋介石はこの時点で中華民国を名乗りはしたものの、法も行政組織もない任意団体にすぎない相手ですから、「戦争」ではなく「事変」なのです。

ちなみに大東亜戦争について、戦後は英語の「The Pacific War」を邦訳した太平洋戦争という用語が普及しましたが、日本政府がこの名称をその後に正式採用したという事実もまた、ありません。
そもそも、当時の大日本帝国の戦いは、何も太平洋に限ったことではありません。
支那満洲から東南アジア諸国、そして太平洋の島々にまで広がる広大なエリアで繰り広げていた戦いです。

ですから英国の教科書では、この戦いのことを「War with Japan(対日戦争)」と呼称しています。
また、英国の歴史学者クリストファー・ソーンは、「むしろ『極東戦争』と呼ぶべきである」とも提唱しています。

では、日中戦争という用語は、どこから生まれたのでしょうか。
その答えが、実は中華人民共和国(以下中共政府と呼びます)です。

中共政府は、この戦争のことを「中日戦争」と呼んでいます。
これを日本を主語にひっくり返したのが「日中戦争」です。
ですから「日中戦争」の語を用いる人は、中共政府から賄賂をもらって抱き込まれたか、その抱き込まれた人の影響下にある人たち、ということになります。
そもそもわが国の歴史用語に「日中戦争」という用語はないからです。

ちなみに、「事変」と「戦争」の用語の違いについて、米国内でかつて起こった南北戦争だって内戦なのに「戦争」と呼んでいるではないかという方がおいでになりました。
南北戦争は「アメリカ合衆国(北軍)と、南部11洲によって構成される「アメリカ共和国(南軍)」との戦いです。
どちらも「国」ですから、これは戦争です。
つまり国際戦争であったのです。

同様に、日本においても、西南戦争とか戊辰戦争といった言葉がありますが、この当時は、西洋からの翻訳語がたくさん生まれた時代で、いわば流行として使われていた言葉が、西南戦争とか戊辰戦争、会津戦争、箱館戦争などといった言葉です。
西南戦争も、ですから当時の明治政府は「鹿児島征討」「西国征討」などと呼んでいて、「西南戦争」という言い方はしていません。
ただ、その「役」の後に、明治新政府に逆らったということで、(ひどい話ですが)彼らは外国人だという扱いになりました。
このため、戊辰戦争で国のために戦った旧幕軍も、西南戦争の西郷隆盛軍も、戦死した人たちは、靖国神社に祀られていません。

ちなみに昔の日本語では、「役」「乱」「変」が区別されていて、
「役」は、他国との戦争(文永・弘安の役、文禄慶長の役など)、
     もしくは辺境のでの戦争(前九年の役、後三年の役など)
「乱」は、現政権に対する反乱(壬申の乱、応仁の乱など)
「変」は、政権に対する陰謀や襲撃(本能寺の変、桜田門外の変など)を意味していました。

■ 第二 きっかけの間違い

第二に、盧溝橋事件について、これを支那事変のきっかけだとする歴史認識自体が間違いです。

支那事変の始まりは、実は当時も昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件が発端とされていました。
ただ、そうなったのは、昭和11年の「西安事件」による蒋介石の変節を、日本側がこの当時察知していなかったことによります。

それまで支那国民党を率いた蒋介石は、支那国内で、国民党と政治的に対立する支那共産党征伐に血眼になっていました。
この当時の世界では、共産主義者征伐が欧米社会を含む大きな社会問題正義とされていました。
一方で、支那共産党は、ソ連をバックに、支那各地を植民地化していた西欧諸国の追い出しを図ろうとしていました。
これは困るということで、英米が中心となり、蒋介石率いる国民党という名の軍閥に援助を与えて、自分たちの手をできるだけ汚さずに、支那内部における共産主義者狩りと行っていました。
逆にいえば、蒋介石は、人を使って共産主義者狩りをすれば、多額のお金が手に入って、自分がお金持ちになれるという情況にあったわけです。

共産主義者狩りを行えば行うほど、蒋介石の手元にはお金が入るのです。
ですから蒋介石は、自分たちがどれだけ共産主義者を狩ったのかを、しきりに宣伝するようになりました。
支那でいまでも宣伝が「工作の内」と考えられているのは、このことがきっかけとなります。
共産主義者を狩る、これを誇大に宣伝する、するとお金が入るという流れができあがっていたわけです。

こうして蒋介石は、有り余る資金と武力援助をもとに、支那において徹底的な共産主義者狩りを行いました。
この結果、ソ連の後押しをえていた共産主義社の毛沢東は、支那内部を転々と逃げ回る他なく、その逃げ回っていた当時のことを、後付で彼らは毛沢東の「長征」と呼んでいるわけです。

結果として毛沢東の支那共産党軍は勢力を激減させ、ついにわずか三千の軍団となって延安に逃げ込みました。
そして「ついに共産党にトドメを刺せる」とばかり、延安の南方にある西安に蒋介石が乗り込みました。
ところがこの蒋介石を、満洲から追い出された張作霖の息子の張学良が(当時は蒋介石の味方のふりをしていた)、蒋介石を西安で拉致監禁して共産党軍に引き渡した、というのが、いわゆる「西安事件」です。

ところが、ここに不思議なことがあります。
共産党軍からすれば、それまで多数の共産党の仲間を殺しまくってきた張本人の蒋介石を捕まえたわけです。
どれだけの暴虐がが加えられたろうかと思いきや、14日間も監禁されていた蒋介石は、五体満足で、しかも極めて健康な状態で釈放されているのです。

西安で、いったい何が起きていたのでしょうか。

この西安事件は、実は、支那内部では、国民党からも共産党からも、どちらからも極秘扱いされていた事件です。
それがどうしていま、世界中の人が知っているのかというと、実は日本の新聞記者が、これを報じたことによります。
報じたのは、日本の共同通信の記者として上海にいた松本重治で、彼はテニス仲間の支那人から、西安事件の一報を知るのです。
そしてこれを東京本社に打電。
このスクープが東京から全世界に発信されています。
もっとも東京からの発信だったために、当時は「西安事件は日本の陰謀ではないか」と疑われたりもしています。

さて、さらに不思議なことは、代表の蒋介石が拉致監禁されるという大事件でありながら、そこで起きた出来事が、国民党からも共産党からも、どちらからもまったく発信されていないことです。

ということは、バレたら両方に都合が悪いことだということになります。
それは何でしょうか。

この先は、私の個人的な見解です。
当時、共産党の毛沢東は壊滅寸前。そこでトップの蒋介石ひとりの命を奪っても、国民党軍の進撃は止まりません。それどころか、蒋介石暗殺のニュースが流れれば、国民党軍は復讐戦だとばかり延安に襲いかかります。
そうなれば、おそらく毛沢東以下3千の共産党軍は、全員壊滅したことでしょう。

他方、蒋介石にしてみれば、共産党軍をやっつけるからということで、米英等から巨額の資金援助を得ていたのです。
戦乱のための資金です。その額は巨額に登ります。
数兆円規模の巨額の資金を得ながら、最大のコストとなる兵については村人たちを、撃たねば殺すと脅してタダで強制徴用しているわけです。
要するに、どれだけ儲かるか、という話です。

けれど、共産党軍が壊滅したら、資金援助はオシマイです。
欧米の軍隊が乗り込み、支那を勝手に植民地化し、蒋介石はどこかに追いやられる。
このことは、すこし歴史をかじっていれば、誰にでもわかることです。

そこで張学良が間を取り持って、両者を仲良くさせたらどうなるか。
毛沢東は延命され、支那共産党は生き残って次のチャンスを待つことができ、蒋介石はまだまだ続けて欧米からの援助を得ることができる。

ただ、問題があります。
すでに共産党は、壊滅状態にあるのだと、それ以前に蒋介石が宣伝してしまっていることです。

こうした状況下で、共産党と国民党が共に生き残り、さらに欧米諸国からカネを巻き上げるには、いったいどのようにすればよいのでしょうか。
答えは、欧米諸国ではない、共通の敵を作ることです。
こうして彼らの標的が日本へと移るのです。

欧米諸国にしてみれば、第一次世界大戦後に、調子に乗って「世界の人種の平等を」などと言い出した日本は、彼らの植民地支配による経済的基盤そのものを脅かす、世界で唯一の有色人種です。
これを攻撃するという、新たなテーマで、欧米諸国から蒋介石はカネをもらい、毛沢東も生き残って蒋介石に協力する。
このことは彼らにとっては、まさに名案です。

一方、何も知らない日本は、ただひたすらに支那の治安維持を願い、37年前の明治34年(1901)の北京議定書に基いて、国際協調のもとで支那への派兵をしていました。
そしてこのあと、1918年から1920年にかけて世界的にスペイン風邪が流行し、日本だけが支那に兵を残すことになりました。

スペイン風邪というのは、当時20億人であった世界の人口のうち、5億人が感染し、1億人が死亡したというたいへんな疫病です。
名前はスペイン風邪ですが、これはたまたまスペインの王子が感染したことから付けられた名前で、感染の発生源は、武漢であったといわれています。
つまり、当時の支那に派兵していることは、欧米諸国にとって極めて兵の死亡リスクの高い情況であったわけです。

このため欧米諸国は、支那大陸から兵を引き上げ、内乱の続く支那には、当時の国際連盟の安全保障理事国のひとつであった日本のみが、在留して治安維持にあたることになりました。
そして、その16年後に西安事件、17年後に盧溝橋事件が起きるわけです。

当時の日本は、支那国民党との関係も良好を保ち、また支那各省の自治政府とも仲良くし、自治政府の持つ私兵の訓練にも惜しみなく協力をしていました。
ですから日本にしてみれば、まさか国民党が日本に牙をむくとは思わない。

そこへいきなり、北京郊外の盧溝橋付近で演習中の日本軍に向けて発砲騒ぎが起こったのが、盧溝橋事件です。

当時の日本政府は、台湾、朝鮮半島、満洲、太平洋の島々、他の東亜諸国にまで、手厚い援助を与えていました。
それを日本国内の税収で、行っていたのです。
このため国内の国民生活は、困窮どころか貧困を極める情況となっていました。

そんなところに、さらにお金のかかる戦闘など、絶対にしたくない。
だから日本は、盧溝橋事件についても、現地ですぐに停戦協定を結んで、この事件をまるくおさめてしまっています。

ところが、支那共産党と国民党の狙いは、日本を侵略国に仕立てることです。
そのために、日本を挑発しなければならない。

ですから盧溝橋事件が、予期に反して現地で解決してしまうと、彼らは次々と日本に対する挑発行動を起こしています。
翌8月の第二次上海事変までに起きた主な出来事をひろっただけでも、
7月 7日 盧溝橋事件
      北京郊外の盧溝橋付近で演習中の日本軍に向けて発砲
7月13日 大紅門事件
      日本軍トラックを爆破して4名を殺害
7月14日 日本軍騎兵惨殺事件
7月20日 盧溝橋城からの日本軍への発砲事件
7月26日 廊坊事件
      天津北平間の軍用電線の修理に向かった日本軍への発砲
      迫撃砲まで加えて攻撃。日本側14名が死傷。
7月27日 広安門事件
      事前の了承のもとに北京城の広安門を通過しようとした
      日本軍に向けて不意に手榴弾と機関銃を猛射。
      日本側は 新聞記者を含む19名が死亡。
7月29日 通州事件
8月13日 大山中尉惨殺事件
      第二次上海事変勃発

と、まさに「立て続け」に日本軍を狙った事件が相次いで起こっているのです。

世界の国際法の常識ですが、「挑発(provocation)」を受けて戦闘(Attack)を行うことは、侵略ではありません。
正統な自己防衛行為です。
これは、軍事活動が、敵地で行われたか、自国の領土内で行われたかには関係ありません。

ですから、ここで日本が徹底反撃に出て、支那を完全に支配下に置けば、日本は安泰だったのではないかという人もいます。
けれど、繰り返しになりますが、日本一国で、東洋全域の面倒を見ていたのです。
そんな費用は、国としても出せない。
だから日本は、当時、どこまでもひたすら支那側の横暴に我慢して、和平の道を探ろうとしていたのです。

それはそれでとても素晴らしいことです。
けれどこのために、支那においては、日本は完全に「たのみにならない存在」とみなされるようになりました。
むしろ、当時日本人だった半島人の横暴や暴行、強姦などが相次ぐなか、それらに対してさえも、積極果敢な対応を取らない日本人は、支那国民の「敵」とすらみなされるようになっていきました。

この時代に、「梅蘭芳」という京劇の役者がいました。
京劇の女型として、たいへんな人気を博した男性です。
いまの日本で行ったら、坂東玉三郎と、大人気の女優さんを足して二で割ったよりも数倍の人気を当時の支那で持っていた俳優さんです。

支那における京劇というのは、実は支那における歴代王朝や昨今の共産党よりも、支那の民衆にはるかに大きな影響力を持つ存在です。
私たちは、京劇といっても、Youtubeの動画でたまに観るくらいで、甲高い支那語の歌に、激しいドラが鳴り響き、明るい舞台の上で豪華絢爛な衣装を付けた役者さんが舞うくらいのイメージしか持ちません。

ところが、当時の支那では、もちろん京劇は今と同じく、夜、芝居小屋で上演されるのですけれど、舞台照明はロウソクですから、決して明るくない。
小屋の中は薄暗いわけです。
その薄暗い空間に、びっしりと人が入り、ドラやハンショウが連続して打ち鳴らされ、ほとんどヒステリックな歌声が響き渡り、護摩が焚かれ、観客たちはある種のトランス状態となり、まさに熱狂していきます。

つまり京劇は、私達が想像するよりも、はるかに強いメッセージを、人々の感情に訴え、西欧における宗教以上に人々を指導する、実は支那の伝統文化であるわけです。
従って京劇を敵に回すことは、支那人を敵に回すことになるのです。
それだけの力が、実は京劇にあります。

残念ながらこの時期、日本は京劇を敵に回しています。
梅蘭芳も、日本のための上演を要求されましたが、インフルエンザの予防薬を大量摂取して40度の熱を出してまでして、これを拒否したくらいです。

簡単な図式があります。
当時、政治的に力のあった国民党と、日本と、共産党の対比です。

「国民党」は、暴徒そのものでした。
国民党の兵士たちが芝居小屋を代金も払わず傍若無人に小屋を占拠し、小屋内で他の観客との暴行事件を多発させていました。
国民党がやってくると、京劇の役者たちは芝居にならず、観客たちは恐怖におののかなけばならなかったといいます。

「日本」は、基本的に京劇などの地元文化に接点を持たないし、関係もしようとしませんでした。
ですから日本人は規律正しいとみられる一方で、お高く止まっている=威張っていると見られました。

さらに当時日本人となっていた半島人の横暴は目に余るものでした。
そのことを支那人たちが日本軍や日本人に繰り返し訴えたけれど、日本軍は動きませんでした。
こうして「日本人は支那人が困っていても助けてくれない人々」とみなされるようになっていったのです。

日本人にしてみれば、どこまでも支那は支那人のものであり、自分たちは治安維持のために来ている軍隊でしかありません。

ところがこういう話があります。

当時の上海です。
上海には、外国船舶がたくさん往来していました。
その外国船舶に、支那人の旅行客たちも乗りました。
すると欧米各国の船は、乗船した支那人たちを檻(おり)に入れ、四方に銃を持った兵隊を立たせました。

日本人の感覚からすると、これはたいへんに無礼なことです。
ですから日本船舶では、このような仕打ちはまったくなかったのですが、ところが支那人たちは、そんな日本船舶よりも、西洋の船舶への乗船を好んだのです。

なぜかというと、支那人の中には、泥棒をしたり暴れたりする者もいるわけです。
銃でも盗めば、それこそその者は、他の支那人たちからあらゆる財物を巻き上げます。
だから、何事も起こらないように、自分も含めて檻に入れてもらい、四方から銃を突きつけてもらうほうが、支那人自身にとって、航海が安心かつ安全なものとされたのです。

ところが日本人は、支那人を信頼してると称して、檻にも入れないし、銃も突きつけない。
それでいて盗難や暴行事件が起これば、犯人を殴ります。
つまり日本人は暴力的(?)と見られたのです。

この違い、ご理解いただけますでしょうか?
マキャベリの「君主論」にある次の言葉、
「乱世にあっては、慕わられるより怖がられる方がはるかに安全」
という言葉を思い起こしていただければ、理解の助けになるでしょうか。

「共産党」はというと、いかなる京劇の人気役者であろうと、言うことを聞かなければ即時、死を与えます。
その一報で、言うことを聞けば、巨額な経済的支援が行われます。
そしてその支援は、すべて、支那の人民の教育ためだと説明していました。

この国民党、日本、共産党、三者の違いは、結果として広い支那の中で、共産党の人気を不動のものにしていきました。
日本人の中には、日本軍は規律正しかったし、日本人は支那人に対して、人道的な扱いをしてきたし、良くしてきてあげたのに、どうして日本が恨まれなければならないのか。

なぜ、国民党の中に、共産党のスパイや、共産党に呼応する人物が後を絶たなかったのか、まったく理解できないという人が、歴史学者の中にも、たくさんおいでになります。

けれど、それは根底から支那を見誤っていることに起因しています。

日本は、天皇がおわし、天皇のもとに、領土領民が「おほみたから」とされてきた、国を一家と考えられる、あるいみ世界に類例のない、まさに古代からの国民国家(Nation State)です。

けれど支那は、古代から外来王朝に植民地支配され続けた国です。
支那は易姓革命の国であり、王朝が滅んでも、支那人は生き残ってきたのです。
支那では、王朝や政治体制よりも、支那人の方が古くて長くて圧倒的に数の多い先住民なのです。

7月7日の盧溝橋事件のあと、通州事件などの事件が相次ぎ、ついに8月13日には第二次上海事変が勃発しています。
このとき上海にいた海軍陸戦隊4000人の果敢な奮戦がなければ、このとき国外退去(支那から日本への避難)のために上海にいた3万6千人の日本人民間人の身の上には、第二の通州事件が、その150倍以上の規模で降り掛かったに違いありません。

ひとつ弁解をしておくと、当時の支那にいた日本軍の中には、支那人社会をよく理解し、支那人への対応について、「こうすべし」という明確な手立てを講ずることを強く主張する人たちもいました。
それは、先程述べた、檻に入れて銃をつきつけて輸送するというように、一見すると怪しいものと思えるものでしたが、実際に欧米諸国がそれで成功していたわけです。

ちなみに、ドイツなどは、いまだに支那人からはたいへんな人気です。
支那では、日本車は嫌われますが、ドイツ車のワーゲンなら、タクシーとして走行が100万キロを超えても使い倒されます。
ほとんど全部のタクシーがドイツ車です。

ドイツは、義和団事件の際に、最も大きな犠牲を払った国です。
それだけに彼らは支那人を研究し、その結果、義和団事件から126年経ったいまでも、ドイツ人は支那社会で大成功を治めています。
支那に反日はあっても、反独はまったくありません。

ドイツは、義和団事件で学習したのです。

ところが日本は、ドイツより以前から支那と関係を持ちながら、いまだに支那人をわかっていない。
わかっていないどころか、日華事変の勃発した昭和12年当時は、日本国内では民政党と政友会の二大政党が、互いに罵り合い、罵倒しあい、内閣の足を引っ張り、議員は自己の票のために地元有権者に媚(こび)を売るばかりで、国際情勢や、近隣国の情勢には、現実にそこで日本人が連日酷い目に遭わされているのに、まるで無頓着でした。

そうした日本の内向き志向が、結果として多くの日本人の命を失わせる結果になり、そして日本を戦乱のルツボに追い込んで行ったのです。
これは日本が猛反省すべきことです。

相手も自分たちと同じ価値観で動くはずだ、と思い込んではならないのです。
そして、国内政治が、国内での対立と闘争ばかりを繰り返していたら、結果として日本人は、ひどい目にあうのです。

日本は侵略のために支那にいたのではありません。
日本が支那を侵略するために軍を駐屯していて、それを不服とする国民党軍が、盧溝橋で日本軍に発砲したなどと述べる人がいますが、とんでもない言いがかりです。

さて、最後に、盧溝橋事件について、すこし掘り下げておきます。

この事件は、日本陸軍が北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた際に、突然何ものかから発砲を受けた、これとほぼ時を同じくして近くにいた10万の国民党軍も、銃撃を受けた。そして日本と国民党軍が、互いに一触即発の事態になったという事件です。

ところが一方的に発砲を受けたとき、演習をしていた日本陸軍は、実弾を携行していません。
つまり銃は持っていたけれど、弾は持っていなかったのです。

弾がなければ、国民党に発砲のしようもない。
だから両軍とも軍使を出して、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
事件は、これで解決しています。

ところが両軍を争わせようと仕掛けた側の中共政府は、両軍が和解してしまうと困るわけです。
この中共が仕掛けたという事実については、支那共産党の周恩来首相が昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、明確に述べています。

=========
あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ。
=========

思惑通りにならなくても「なった」と強弁するのは、共産党やカルトに際立った特徴です。
盧溝橋事件では、彼らの思惑通りに日本と国民党軍を戦わせることができなかった。
その「できなかったこと」を、逆に「今日の栄光をもたらしたものだ」と強弁する。
本当に、毎度毎度の同じ手口です。
周恩来の発言は、盧溝橋事件が当事者である支那国民党と日本陸軍との紛争ではなく、第三者である支那共産党による「工作」であったことを明確にしています。

さらに盧溝橋事件の最初の発砲事件から4日目の7月8日に、支那共産党は日本との全面交戦を呼び掛けています。
けれど日本は、予期に反して11日に和議を結んでしまう。
つまりこの段階で、共産党の工作は失敗に終わったのです。

そこで、あくまで日本と国民党とを戦わせたい中共が仕組んだのが、同年7月25日の廊坊駅における国民党軍と日本軍との戦闘(廊坊事件)、7月26日の北京市の広安門において日本兵が襲撃されるという広安門事件です。

そしてこの二つとも、日本によって見事に鎮圧された結果、廊坊や広安門での工作員たちが、北京郊外の通州市に集結して、日本人居留民を襲ったのが7月29日の通州事件です。

それでも戦いたくない日本は、民間人の商社マンで支那通の船津源一郎に依頼して、それまでの支那国民党の言い分を全部呑むから、互いに仲良くしようともちかけています。
これが「船津工作」と呼ばれるものです。
日本が国民党側の言い分を全部呑むなら、国民党としては、最早日本と争う理由がまったくありません。

そこでこの条約調印が、10日後の8月9日に上海で行われることになったのですが、この調印を是が非でも実現させたくない支那共産党がこの調印式を中止させるためにやったのが、上海市内における日本海軍陸戦隊中隊長、大山勇夫中尉の惨殺事件です。
大山中尉は、クルマで上海市内を走行中、突然、取り囲まれてて銃殺されています。
それも、機銃掃射を浴びて、虫の息となっているところを、わざわざ車外に引きずり出して、青龍刀で頭蓋骨を割られるという残酷さで、です。

さらに続けてこの日、一人の支那人死刑囚が国民党軍の軍服を着せられて、上海飛行場の門外で射殺されるという事件も起こりました。
これまた支那共産党による工作で、いかにも日本が発砲したように見せかけたものでした。

こうして日本と支那国民党との和解工作は破談になり、翌8月11日には支那国民党は、日本との停戦協定を破って、公然と上海に、なんと5万の兵を進めます。
そして8月13日には、いきなり日本軍の駐屯地に機関銃による射撃を開始する。
日本側の兵力は、この時点でわずか4000名です。

そしてやむなく、日本は上海派遣軍を編成して、国民党討伐に乗り出したのです。

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