人は、わからない状態に置かれると、つい早く答えを出したくなります。「あの人はこういう人だ」「これが原因だ」と決めてしまえば安心できるからです。しかし、その瞬間に見えなくなってしまうものもあります。余白とは、何もない空間ではなく、「まだ、わからない」と問いを残し、自分の認識をひとつの答えで閉じないための心の居場所です。答えを急がず、観測点を動かし、人と人との「あいだ」から新しい答えを見つけていく。そんな「余白」が持つ意味について考えます。

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余白は、急いで答えを出さない勇気がつくる、心の居場所である。
何か問題が起きたとき、私たちはつい、
どちらが正しいかと相手を記号化したり、
誰が悪いのかと犯人探しをしたりしがちです。
これらは、結局のところどういうことなのかと、先に答えを求めるはたらきです。
答えが出ると、人は安心するからです。
けれど世の中には、すぐに答えを出さないほうがよいこともあります。
たとえば、人と人とのすれ違い。
相手の言葉にカチンときたとき、
「あいつは失礼な奴だ」と決めてしまうのは簡単です。
けれど、そこでほんの少し、
「どうして、あんな言い方をしたのだろう」と立ち止まってみる。
そしてたとえば、
彼は疲れていたのかな、あの人は何か心配事を抱えていたのかも、
あるいは、自分が知らない何か事情があるのかもなどとも考えてみるのです。
もちろん、本当に失礼なだけだったのかもしれません。
ただ、大切なことは、どれかひとつだけを、すぐに答えにしてしまわないことです。
その「まだ、わからない」という場所に、少しだけ留まるのです。
そこに生まれるのが、余白なのだと思います。
先日、こんなことがありました。
何人かの友人らとレストランで食事をしているときに、ある著名な方がすぐ近くで数名の人と食事をしていることに気が付きました。
直接お会いするのは、はじめてでしたので、その方のお席まで行って名刺を差し出し、深々とお辞儀をしてご挨拶させていただきました。
相手の方は私より歳下なのですが、その方は座ったままで「はい、どうも」。
格下の相手だと軽く見られたのかもしれません。
まあ、どう見ても私の方が若いのですが(笑)。
一緒に居た友人が、「あの人、意外と失礼な方なんですね」と憤慨していました。
けれど、「決めつけてはいけないよ。社会常識がなかったとしても、あの方から学ぶことはたくさんあるかもしれないのだから^^」とお答えしました。
ほんの一瞬のことです。
ただ、そこで「失礼な奴」という答えを先に出してしまうと、他の大事なことが見えなくなります。
これはもったいないことです。
だから、先に結論を出してしまいたくないのです。
決めないということは、「相手を許してあげましょう」でもなければ、「悪く受け取らないようにしましょう」ということでもありません。
相手が本当に失礼だった可能性まで残しています。
それでも、その一事だけで相手全体を「失礼な奴」と記号化してしまえば、その人から学べたはずのものまで、自分の側から閉ざしてしまう。
ここは避けたい。
だから、相手のためというより、むしろ自分自身の観測可能性を閉じないための空間としての余白を残しておきたいのです。
「余白」は、ありがちな道徳論でいう「寛容」ではありませんし、相手を善意に解釈することでもありません。
「自分の認識を一つの答えで閉じないこと」です。
このことは、「きっと何か事情があったのだ」と善意の物語に置き換えてしまうことでもありません。
それでは、また別の答えによる記号化になってしまいます。
失礼だったのかもしれない。
事情があったのかもしれない。
単にそういう作法を知らない人なのかもしれない。
こちらが何かを読み違えているのかもしれない。
わからない。
だから閉じない・・・これが余白です。
人は、答えがない状態よりも、たとえ間違っていても答えがある状態のほうを好みます。
あいつが悪い、こういう奴だ、これが原因だ、これが真実だなどと、決めたくなります。
記号化してしまえば、それ以上考えなくても済みます。
けれど「余白」は、「別の見方はないだろうか」という問いを残します。
観測点を少し動かしてみることもできます。
自分から見たら腹立たしい出来事でも、相手から見たら違う景色かもしれない。
今日だけを見れば残念な出来事でも、一年後から振り返れば、大切な転機だったということもあります。
だから、ひとつの観測点から見えた答えを、世界だと思いたくないのです。
そのためには、
「まだ決めなくていい」
という場所が必要です。
それが、「心の余白」です。
余白は、空っぽではありません。
むしろそこには、まだ言葉になっていない思いや、まだ見えていない可能性、まだ気づいていない相手の事情、そして、これから生まれる新しい問いがあります。
急いで答えを出してしまうと、それらが見えなくなります。
余白を持つことは、優柔不断になることではありません。
わからないものを、わからないまま抱えておける強さを持つことです。
もしかしたら、それは、ひとつの勇気なのかもしれません。
人と人の「あいだ」にも、同じことが言えます。
すぐに相手を評価しない。
すぐに関係を決めつけない。
すぐに勝ち負けを決めない。
その「あいだ」に少し余白を残しておくこと。
するとそこに、対話が生まれます。
気づきが生まれます。
そして、ときには、自分ひとりでは思いつかなかった新しい答えが生まれてきます。
答えは、最初から誰か一人の中に完成しているとは限りません。
人と人が向き合い、互いの観測点を持ち寄ることで、その「あいだ」から生まれてくる答えもあります。
余白は、答えがない場所ではありません。
新しい答えが生まれることのできる場所です。
ここで大切なことは、
「答えを急がない」ことと、
「出口を考えない」ことは違う、ということです。
出口設計は、未来に向かって「どこへ行きたいか」を考えることです。
余白は、そこへ向かう途中で、「いま見えているものだけを唯一の答えにしない」ことです。
出口は持つ。
けれど、答えは急がない。
むしろ良い出口を目指すからこそ、途中で見えたひとつの答えに自分を閉じ込めないことが大切なのだと思います。
急いで決めない。
すぐに裁かない。
わからないことを、少しだけ「わからないまま」にしておく。
そんな小さな勇気が、心の中に居場所をつくります。
そしてその居場所があるからこそ、私たちは観測点を動かし、人と響き合い、昨日まで見えなかった景色を見ることができます。
——今日も良い一日を♪
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