『古事記』の冒頭には、「上件五柱神者別天神」という、わずか九文字の一文があります。なぜ最初の五柱の神々だけが「別天神」と呼ばれるのでしょうか。神々のお名前を一柱ずつ読み解いていくと、中心、生成、成長、恒常性という、形のない働きが見えてきます。そして、その後に登場する国之常立神からは、形ある世界への展開が始まるようにも読めます。**形があるから結ばれるのか。それとも、結びがあるから形が生まれるのか。**千三百年以上前の『古事記』を、Relation(関係性)とEntity(存在)という現代の観測点から読み直すことで、家庭や会社、社会の見え方まで変わってくるかもしれません。

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形があるから、結ばれるのか。結びがあるから、形が生まれるのか。『古事記』の別天神は、世界のはじまりに、その問いを置いているのかもしれない。
第一章 『古事記』にある、たった九文字の不思議
『古事記』は、日本に現存する最古の歴史書です。
その冒頭には、天地が初めて発したときに成られた三柱の神々のお名前が並んでいます。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、
神産巣日神(かみむすひのかみ)。
そして、宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)。
この五柱の神々のお名前を書き並べたあと、『古事記』は、次のような一文を置いています。
「上件五柱神者別天神」
「上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の神は、別天神(ことあまつかみ)なり」と読みます。
わずか九文字です。
ところが、この九文字が、実はとてもおもしろい。
一般に「別天神」は「ことあまつかみ」と読み、他の神々とは区別される特別な天つ神と説明されます。
では、いったい何が「別」なのでしょうか。
普通の天つ神とは違う神様なのでしょうか。
それとも、私たちの住む世界とは異なる、別の天におられる神様なのでしょうか。
そもそも、どうして最初の五柱だけを、わざわざ「別天神」と呼んでいるのでしょうか。
実は、この「別」が何と何を区別しているのかについては、研究者の間でも見解が分かれています。
本居宣長は、後に出現する国土に関わる神々に対し、天上界に成られた神々として、この五柱を区別したと考えました。
一方で、後に登場する天照大御神などの天つ神と区別する意味ではないかという解釈もあります。
『古事記』では別の箇所で『別』を『ワケ』と読む例もあり、この『別天神』の読み方や意味についても検討の余地があります。
要するに、誰もが知っているようでいて、実は簡単には答えの出ない九文字なのです。
けれど、だからこそ、おもしろい。
ここで少し、観測点を動かしてみましょう。
「別天神とは何か」という問いを、「なぜ、この五柱だけが別とされたのか」という問いに変えてみるのです。
すると、これまでとは違う景色が見えてきます。
第二章 最初の五柱には、形がない?
五柱の神々のお名前を、もう一度、順番に眺めてみます。
最初は、天之御中主神です。
「天之」は天の、「御中」は中心、「主」は主(ぬし)です。つまり、天の中心におわす主の神様と読むことができます。
ここで、ひとつの「点」を思い浮かべてみてください。
数学の点には、大きさも広がりもありません。
位置を示すことはできますが、それ自体に縦も横も厚さもありません。
もちろん、天之御中主神が数学的な点そのものであると『古事記』に書かれているわけではありません。
けれど、「中心」を形のない点として考えると、ひとつ興味深いことが見えてきます。
中心というものは、実は、それだけでは中心になりません。
何らかの広がりがあり、その広がりとの関係があって、初めて中心が定まります。
つまり、中心とは、ある物体の名前というよりも、周囲との「関係」の中で成立する概念です。
次に登場するのが、高御産巣日神と神産巣日神です。
この二柱のお名前には、どちらにも「産巣日(むすひ)」という言葉が使われています。
「むすひ」は、古くから万物を生み出す生成の力と解釈されてきた言葉です。
現代の「結び」という言葉とも重ねて考えたくなりますが、古語の「むすひ」と「むすび」の語源的な関係については諸説があります。
それでも、何かが生まれ、育ち、新しいものが成っていくという働きに注目するなら、そこには大切な共通点があります。
生成する力は、目に見える物体そのものではありません。
木は見えます、花も見えます、果実も見えますが、木が育ち、花が咲き、実が結ばれていく、その「生成する働き」そのものを、ひとつの物体として取り出すことはできません。
四柱目が、宇摩志阿斯訶備比古遲神です。
『古事記』は、この神様が成られたときの様子を、次のように記しています。
如葦牙因萌騰之物而成神名
葦牙(あしかび)の如く、萌え騰(あ)がる物に因りて成りませる神の名は、という意味です。
葦の芽が、勢いよく萌え出してくるような様子です。
葦の芽そのものには形があります。
しかし、この文章が強調しているのは、芽の形だけではありません。
「萌え騰る」という、勢いよく成長していく働きです。
ある状態から、新しい状態へと変わっていく。
ここにも、形ある物体そのものより、生成と成長の働きに目を向ける読み方ができます。
そして五柱目が、天之常立神(あめのとこたちのかみ)です。
天という広大な世界に、常に立つ神様。
「常立」の語義についても諸説ありますが、天における恒常性、あるいは、これから何かが成立していくための根源的な場や土台として考えることができます。
これもまた、手で触れることのできる具体的な物体というより、世界を成り立たせる基盤のようなものを思わせます。
ここまでの五柱をまとめてみましょう。
天之御中主神は、中心。
高御産巣日神と神産巣日神は、生成する働き。
宇摩志阿斯訶備比古遲神は、萌え上がる成長。
天之常立神は、天における恒常性や根源的な基盤。
もちろん、これらは神々のお名前を現代の観測点から捉え直した一つの考察です。
けれど、こうして眺めてみると、五柱には共通するものがあるように思えます。
それは、「完成した形あるものよりも、その形が成立するための働きや条件に重点が置かれている」ということです。
第三章 天之常立神から、国之常立神へ
ここで、もう一度『古事記』の文章に戻ります。
最初の五柱を「別天神」と総括した直後、次のように続きます。
次成神名國之常立神。次豐雲野神。
次に成られた神の名は国之常立神(くにのとこたちのかみ)、次に豊雲野神(とよくもののかみ)、という意味です。
ここで注目したいのは、天之常立神と国之常立神の違いです。
どちらも「常立(とこたち)」です。
ところが、前者は「天之」、後者は「国之」です。
天から国へ。
ここで、神々のお名前が示す世界に、何か変化が起きているように思えませんか。
さらに、次の豊雲野神には、「雲」や「野」という文字が登場します。
「国」「雲」「野」。
まだ具体的な国土や自然が完成したと書かれているわけではありませんし、それぞれのお名前の解釈にも諸説があります。
実際、『古事記』は四柱目の神様が成られる前に、すでに「国稚(わか)く、浮ける脂の如くして」と、未成熟な国の様子を描いています。
また、国之常立神と豊雲野神も、最初の五柱と同じように「独神」として成り、身に隠したと書かれています。
ですから、五柱目までは完全に形がなく、六柱目から突然物質が現れたと解釈することはできません。
それでも、ひとつの変化を読み取ることはできそうです。
それまでの神々が、中心、生成、成長、恒常性といった根源的な働きを思わせるのに対し、国之常立神以降は、国土や自然、そして、やがて生命を生み出す具体的な世界へと、物語の焦点が移っていくように見えるのです。
さらに神々の生成が進むと、男女一対の神々が登場し、最後には伊邪那岐神と伊邪那美神に至ります。
そして、二柱の神様による国生み、神生みへと展開していきます。
つまり『古事記』は、神々のお名前をただ並べているのではなく、
「世界が成立していく過程を、少しずつ具体的なものへと展開させながら語っている」と読むこともできるわけです。
では、そこにはどのような意味があるのでしょうかと考えてみる。
これが実にまた、おもしろいのです。
第四章 Entityが先か、Relationが先か
ここからは、ひとつの思考実験です。
私たちは普通、まず「もの」が存在して、そのあとに「ものとものとの関係」が生まれると考えています。
人がいるから、人と人との関係が生まれる。
会社があるから、会社と会社との取引関係が生まれる。
家族という人々がいるから、家族の関係が生まれる。
ここでは、個々の存在をEntity(エンティティ)、その関係性をRelation(リレーション)と呼んでみます。
一般的な考え方では、
Entity → Relation
という順序になります。
ところが、『古事記』の冒頭の五柱を、形のない働きという観測点から眺めると、まったく逆の順序が浮かんできます。
中心があり、生成する働きがあり、萌え上がる成長があり、それらを支える根源的な場がある。
そのような働きの中から、やがて形ある世界が成立していく。
もしそう考えるなら、世界の始まりを『古事記』は、
Relation → Entity
という順序で描いているようにも見えるのです。
ここでいうRelationは、すでに完成した二つの物体を、あとから線で結ぶというだけの意味ではありません。
何かが生まれ、成長し、一定の形を得ていくための、働きや関わり合いそのものです。
少し身近な例で考えてみましょう。
一輪の花があります。
花には、色があり、形があり、大きさがあります。
誰が見ても、そこには、花というEntityがあります。
けれど、その花は、最初から完成した姿で存在していたのでしょうか。
土があり、水があり、光があり、種があり、温度があり、空気があります。
それらが互いに作用し合う中で、芽が出て、茎が伸び、葉が開き、やがて花が咲きます。
もちろん、種や水や土も、それぞれEntityです。
ここで考えたいのは、それらの存在の有無ではありません。
花という新しいEntityが成立するより前に、その成立を可能にするRelationが働いているといえるのではないか、ということです。
花は、完成してから周囲と関わり始めたのではありません。
さまざまな関わりの中で、花になったのです。
このように考えると、世界の見え方が少し変わってきます。
何かが存在することだけではなく、それがどのような関わりの中で成り立っているのか。
『古事記』の最初の五柱は、そんな問いを私たちに投げかけているように思えてくるのです。
第五章 隱身された神々は、どこへ行かれたのか
もうひとつ、注目したい言葉があります。
それが「隠身(かくりみ)」です。
『古事記』は、最初の三柱の神々について、
此三柱神者並獨神成坐而隱身也。
と書き、続く二柱についても、
此二柱神亦獨神成坐而隱身也。
と記しています。
いずれも独神として成られ、隱身されたというのです。
では、隱身されたということは、神々が消滅してしまわれたということなのでしょうか。
もちろん、「隠身」という言葉を、最初から形のない存在であったと断定することもできません。
隱身は、それまで現れていた姿が見えなくなることと解釈することもできます。
けれど、ここでひとつの考察が生まれます。
目に見えなくなることと、働きがなくなることは、同じではない。
たとえば、人と人との信頼関係です。
信頼には、形がありません。
目で見ることも、手で触れることもできません。
それでも、信頼があるからこそ、人は力を合わせることができます。
困ったときに助け合い、ひとりではできない仕事を成し遂げることができます。
信頼というRelationは、見えなくても、確かに働いているのです。
では、最初の五柱の神々も、隱身されたからといって、その働きまで消えてしまわれたのでしょうか。
もしかすると、後に続く世界の成立を、その見えないところから支えておられる。
そんな読み方もできるのではないでしょうか。
そして、もしそうなら、別天神の五柱は、単に最初に登場した五柱というだけではありません。
その後の世界を成立させる、根源的な働きを象徴する神々として読むことができます。
この観測点に立つと、「別天神」の「別」という文字もまた、違った意味を帯びて見えてきます。
他の神々から切り離されているということではなく、他の神々とは異なる役割を担っている。
しかも、その異なる働きが、後に続く世界と深く関わっている。
違うから、無関係なのではない。
違う働きがあるからこそ、世界全体が成り立っている。
そんな可能性が見えてくるのです。
第六章 形を整える前に、関係を考える
このお話は、現代の私たちの暮らしにも通じるところがあると思います。
たとえば、会社です。
会社には、社長がいて、社員がいて、役職があり、組織図があります。
これらは、誰がどのような立場にいるのかを示すEntityの世界観です。
けれど、立派な組織図を作れば、それだけで良い会社になるでしょうか。
社長と社員の間に信頼がない。
部署と部署が対立している。
誰もが自分の担当だけを守ろうとして、困っている人に手を差し伸べようとしない。
それでは、どれほど立派な建物や制度があっても、組織はうまく働きません。
現に、昨今の国の行政組織は、縦割りが問題視されています。
反対に、経営規模の大小に関わらず、組織間が互いの違いを理解して、力を合わせる関係が育っているならば、思いがけない大きな仕事を成し遂げることが可能になります。
家庭でも同じです。
夫がいて、妻がいて、子がいる。
家族という形があるからといって、それだけで温かな家庭になるわけではありません。
互いの言葉を聞き、違いを認め、助け合う。
そうした日々の関わりが、家庭というものを育てていきます。
もちろん、現実の社会で、EntityとRelationのどちらか一方だけで物事が成り立つわけではありません。
形が関係を支えることもあれば、関係が新しい形を生み出すこともあります。
ここで申し上げたいことは、目に見える形だけを整えれば、それですべてが完成するわけではない、ということです。
会社の問題が起きると、私たちは組織図を変えようとします。
家庭の問題が起きると、誰が悪いのかを決めようとします。
社会の問題が起きると、新しい法律や制度を作ろうとします。
もちろん、それらが必要な場合もあります。
けれど、その前に、ひとつ考えてみたいことがあるように思うのです。
いま、そこにある「あいだ」で、何が起きているのだろうか。
この問いを置くだけで、問題の見え方も、解決への道筋も変わってきます。
誰かを変えるのではなく、人と人との「あいだ」を変える。
形を壊して作り直す前に、その形を支えている関係を見直す。
このことは、これからの暮らしや社会を考えるうえでも、大切な観測点になるのではないでしょうか。
第七章 世界のはじまりに置かれた問い
『古事記』は、和銅五(712)年に完成したと伝えられる書物です。
そこに現代の物理学や、Relation、Entityといった概念が、そのまま記されているわけではありません。
今回の考察も、古事記の本来の意味がこれで確定したというものではありません。
そもそも『古事記』は、古来、様々な立場から読み解かれ、多様な解釈が積み重ねられてきた書物です。
ですから、いまここで行っていることは、千三百年以上も前に書かれた言葉を、現代の観測点から眺めてみると、どのような景色が見えるのだろうか、という、あくまで「試み」です。
けれど、そこにこそ、古典を読む楽しさがあります。
『古事記』なら、千三百年もの長きにわたり、様々な人が様々な時代に行ってきた解釈の積み上げがあります。
だからそこに、自分なりの現代なりの解釈をしていく。
もちろん、「自分なりの」だから、何を言っても良いということになりません。
あくまでも、原文から逸脱せず、論理的に解釈を積み上げていくのです。
そもそも古典は、昔の人が出した答えを丸暗記するためにあるものではありません。
昔の人が、何を見つめ、何を大切に考え、どのように世界を捉えていたのか。
その観測点に立って、現代の私たち自身の世界を、もう一度見直してみる。
そこから、新しい問いを生み出すことができる。
そこにこそ、古典を学ぶ楽しさがあります。
こうした視点から見ると、『古事記』の冒頭に登場する五柱の神々が、どうして「別天神」と呼ばれているのか。
その理由もまた、まだまだ考えていく余地があるように思えます。
そして、そこにひとつの可能性として、五柱の神々に共通する、「形のない働き」に注目してみる。
すると、世界はまず完成した物体があって、そこに関係が付け加えられるだけではないのかもしれない、という問いが生まれます。
何かが生まれ、育ち、形を得る。
そのためには、目に見えない働きや関わり合いが必要です。
そして形が生まれた後も、その働きは世界を支え続けていきます。
形があるから、結ばれるのか。
結びがあるから、形が生まれるのか。
このことは、どちらか一方だけが正しいと、急いで答えを出す必要はないと思います。
ただ、もし形あるものの背後に、形のない大切な働きがあるのなら、私たちは、
目に見えるものだけで世界を判断することを、少し考え直してみてもよいのではないか
と思えてくるのです。
人を見るときも、家庭を見るときも、会社を見るときも、社会を見るときも。
そこにあるEntityだけでなく、それらを生み、育て、支えているRelationにも目を向ける。
すると、いままで見えなかった大切なものが、見えてくるかもしれません。
『古事記』の、たった九文字。
「上件五柱神者別天神」。
この短い一文から、そんなところまで考えを広げることができる。
古典とは、本当におもしろいものだと思います。
今日もまた、古事記を通じて、新しい観測点をひとつ見つけたような気がします。
存在するものを説明するだけでなく、存在が生まれる条件に目を向ける。
その観測点から古事記を読むことで、家庭や会社、社会の見え方まで変わってくるのではないでしょうか。
——今日も良い一日を♪

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参考資料
國學院大學「古典文化学」事業『古事記ビューアー・天地初発』および神名データベース「天之常立神」「国之常立神」「豊雲野神」「高御産巣日神」。
※本稿のRelation・Entityによる解釈は、『古事記』本文の構成や神名から着想を得た現代的な考察であり、古代の編纂者がこれらの概念を意図していたと断定するものではありません。
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