『古事記』の神世七代には、不思議な数え方があります。最初の二柱の神々は一柱で一代。ところが、その後の十柱の神々は、二柱を合わせて一代と数えるのです。なぜでしょうか。そこには、異なる存在が、違いを失うことなく結ばれ、新しい世界を生み出していくという、興味深い物語の展開があります。人と人との違いは、争いの原因にもなれば、まだなかった未来を生み出す力にもなります。今回は『古事記』の神世七代から、現代を生きる私たちにとって大切な「結び」の意味を考えます。

今日のひとこと・ひとりでは生まれなかった未来がある。違う二人が、違うままに結ばれることで、まだなかった未来が生まれる。

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『古事記』の冒頭には、次々と神々のお名前が登場します。
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神から始まり、
宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神と続く別天神五柱。
そして国之常立神、豊雲野神から始まる神世七代。
たくさんの神々のお名前が並ぶため、ここで読むのをあきらめてしまう方も少なくないようです。

けれど、神々のお名前だけではなく、その並び方や数え方に注目すると、たいへん興味深いことが見えてきます。
それは、神々が一柱ずつ成られる段階から、二柱が対になって成られる段階へと移っていくことです。
しかも『古事記』は、その変化を、神々の数え方によって明確に示しているといえます。

『古事記』原文

次成神名、宇比地邇上神、次妹須比智邇(去)神(此二神名以音)、次角杙神、次妹活杙神(二柱)、次意富斗能地神、次妹大斗乃辨神(此二神名亦以音)、次於母陀流神、次妹阿夜(上)訶志古泥神(此二神名皆以音)、次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。(此二神名亦以音如上)。
上件、自國之常立神以下伊邪那美神以前、幷稱神世七代。(上二柱獨神、各云一代。次雙十神、各合二神云一代也。)

※原文の「上」「去」は、神名の発音に関する注記です。写本や校訂本によって、文字や注記の配置には若干の違いがあります。

読み下し文

次に成りませる神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)。
次に妹(いも)須比智邇神(すひちにのかみ)。この二柱の神の名は、音(こえ)を以(もち)いる。
次に角杙神(つのぐひのかみ)。次に妹活杙神(いくぐひのかみ)。二柱。
次に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)。次に妹大斗乃辨神(おほとのべのかみ)。この二柱の神の名もまた音を以いる。
次に於母陀流神(おもだるのかみ)。次に妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)。この二柱の神の名は、皆音を以いる。
次に伊邪那岐神(いざなぎのかみ)。
次に妹伊邪那美神(いざなみのかみ)。この二柱の神の名もまた、上の如く音を以いる。
上の件(くだり)、国之常立神より以下、伊邪那美神までを、并(あは)せて神世七代と称(い)ふ。
上の二柱の独神(ひとりがみ)は、各(おのおの)一代と云ふ。
次に双(なら)べる十柱の神は、各(おのおの)二柱の神を合はせて一代と云ふなり。

「去」という不思議な注記

ここで、原文にある小さな注記に注目してみましょう。
宇比地邇(上)神のお名前には「上」、須比智邇(去)神のお名前には「去」という文字が添えられています。
これは神様のお名前の一部ではありません。

古代中国の漢字音には、平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)という四つの声調がありました。これを四声(しせい)といいます。

「上」は上声、「去」は去声を指します。

上声は、古代中国語における声の高低の変化に関わるもの、去声は、一般に下降調として説明されるものです。
ただし、古代中国語の声調を、現代日本語のアクセントとそのまま同じものとして扱うことはできません。
大切なことは、『古事記』が神々のお名前について、単に漢字を並べるだけでなく、その発音の違いまで書き残そうとしていることです。

宇比地邇神と須比智邇神は、よく似たお名前です。
けれど、一方には「上声」、もう一方には「去声」の注記がある。
この注記が、二柱の神の性格や男女の区別を表しているのではないかとする研究上の解釈もあります。

もちろん、そこまで断定することはできません。
しかし、二柱が似たお名前を持ちながら、発音までまったく同じというわけではなかったことには、注目してよいと思います。

二柱は似ている。
けれど、同じではない。
ここです。

このことは、続く神々の組み合わせを考えるうえでも、ひとつの興味深い手がかりになります。

一柱で一代、二柱で一代

さて、ここからが今日の本題です。

『古事記』は、神世七代について次のように記しています。
「上二柱獨神、各云一代。次雙十神、各合二神云一代也。」

(上の二柱の独神は、それぞれ一代と数える。
 続く十柱の神々は、二柱を合わせて一代と数える)という意味です。

ここでいう上の二柱は、国之常立神と豊雲野神です。
この二柱は、それぞれ独神(ひとりがみ)として成られました。

ところが、そのあとに登場する神々は違います。
1 宇比地邇神と須比智邇神。
2 角杙神と活杙神。
3 意富斗能地神と大斗乃辨神。
4 於母陀流神と阿夜訶志古泥神。
5 伊邪那岐神と伊邪那美神。
この五組は、いずれも二柱を合わせて一代と数えられています。

つまり神世七代は、七柱の神様という意味ではなく、
二柱の独神と、五組十柱の神々。
合わせて十二柱の神様のことを、七代として数えています。

ここに明らかに、単なる神様の人数とは違う、もうひとつの数え方があります。

一柱の神様が一代を成すこともあれば、二柱の神様が一代を成すこともある。
それぞれを別々に数えるのではなく、二柱の関係をひとまとまりとして数えているのです。

これは、たいへん興味深いことです。

存在から関係へ

これまでに登場した独神は、一柱として成り、隠身(かくりみ)されました。
その後、神世七代では、「二柱が対になって」登場するようになります。

このことを、世界が成り立っていく過程として考えてみましょう。

まず、存在がある。存在がなければ、そもそも何も始まりません。
けれど、存在があるだけでは、まだ他の存在との関係は生まれていません。

そこに、もうひとつの存在が現れる。
しかも、その二つは、まったく同じものではありません。
それぞれに違いがある。
違いがあるからこそ、そこに関係が生まれる可能性が生じます。

ここで大切になることは、二つの存在が、ひとつに溶けて消えてしまうわけではないことです。

宇比地邇神が、須比智邇神になるわけではありません。
伊邪那岐神が、伊邪那美神になるわけでもありません。
それぞれが、それぞれの神として存在しながら、二柱で一代を成しています。

これは、存在そのものに注目する見方から、存在と存在の「あいだ」に注目する見方へと、観測点を移したということとも受け取れます。
現代の言葉でいうなら、Entity(個々の存在)を中心とした世界から、Relation(関係性)を中心とした世界への展開として考えることができるわけです。

もちろん、『古事記』に現代の理論が書かれているという意味ではありません。
古事記の神々の数え方から、現代を生きる私たちが何を学ぶことができるかという、一つの考察です。

そして、この観測点に立ってみると、たいへんおもしろいことが見えてくるのです。

二人で、ひとつの未来をつくる

たとえば、夫婦を考えてみます。
夫には夫の考えがあります。
妻には妻の考えがあります。
生まれ育った環境も違えば、ものの見方も違います。
だから意見が食い違うこともあります。
男女の生理的な違いもあるでしょう。

そんな異なる存在が夫婦になるわけです。
それは、どちらか一方が自分を捨てて、もう一方と同じ人間になることではありません。
違う二人が、違うままに、ひとつの暮らしをつくっていくことです。

会社や団体、組織も同じです。
営業担当には営業担当の観測点があり、製造担当には製造担当の観測点があります。
経営者には経営者の観測点があり、現場には現場の観測点があります。
それぞれが違うものを見ています。

だからこそ、互いの違いを持ち寄ることができれば、一人では見えなかった問題が見え、一人では思いつかなかった知恵が生まれます。

大切なことは、どちらか一方が勝つことではありません。
二つの存在が、それぞれの違いを保ちながら、共にどのような未来をつくっていくかということです。

もっとも関係(Relation)があれば、必ず良い結果が生まれるわけではありません。
相手を支配したり、一方に犠牲を強いたりする関係もあります。
互いに憎み合ったり、距離を置く関係もあります。
大切なことは、関係をどのように結び、どこへ向かわせるかにあります。
そこに、出口設計という問いが生まれるのです。

神々は何を生み出したのか

神世七代の最後に登場するのが、伊邪那岐神と伊邪那美神です。
この二柱は、続く物語で、天つ神々から国土を整える役割を託されます。
そして、天の沼矛によって淤能碁呂島(おのごろじま)を成し、そこから国生みの物語が始まります。

ここに、ひとつの流れを見ることができます。

独神として神々が成られる。
次に、二柱一組の神々が成られる。
そして最後に、伊邪那岐神と伊邪那美神によって、新しい国土を生み出す物語が始まる。
つまり、存在が成り、存在と存在が対になり、その先で、新しいものが生まれています。

この流れを、人の暮らしに重ねてみます。

私たちは、一人ひとりが独立した存在です。
誰もが違う人生を生き、違う経験を重ね、違うものを見ています。
もし全員が金太郎飴みたいに、同じ考えを持ち、同じ経験をし、同じものしか見ていないのなら、そこから新しい発見はなかなか生まれないでしょう。

違うから、気づく。
違うから、補い合える。

違うから、一人ではつくれなかった未来を、共につくることができる。

『古事記』の神世七代を、現代の暮らしに引き寄せて読むと、このような学びもあるように思うのです。

今日のひとこと

ひとりでは生まれなかった未来がある。
違う二人が、違うままに結ばれることで、まだなかった未来が生まれる。

『古事記』は、神々が一柱ずつ成られる世界から、二柱で一代を成す世界へと物語を進めています。
二柱で一代を為しています。
これは、一方が他方に吸収されたことではありません。
二柱が、それぞれの存在を保ちながら、ひとつのまとまりを成すことです。

私たちの日々の暮らしも、同じだと思うのです。
大切なことは、相手を自分と同じにすることではありません。
違いを持ち寄り、共に知恵を生み出していくこと。

男同士、女同士、友達同士、夫婦間、同僚、それぞれ互いに違いがあります。
長年一緒に仕事をしても、長年連れ添っていても、決して同化することはないし、すべてを理解し合えるわけでもありません。

違いがあるからと、力ずくで支配しようとすれば、それは支配と隷属の関係になります。
これは、片方が生きたまま殺されるようなものです。

違いがあるからと、それぞれが正義を振りかざして衝突すれば喧嘩になるし、それが国同士なら戦争になります。
残るのは、互いの憎しみと不信だけです。

だからこそ、互いに「あいだ」を大切にし、「あいだ」を育んでいく。
そこに、人が生きる目的があるようにも思えるのです。

生命というものは、汲めども尽きぬコンコンと湧き出る泉のようなものだ、という話を聞いたことがあります。
この世から、生命が失われることは決してないし、人は死なない。
だから人類の滅亡もない。
なぜならこの世は、泉から生まれ出た魂が、それぞれ目的を持って魂をより高度な次元に上昇させるためにある「うつし世」だからと、そんな話を聞きました。

それが本当のことかどうかまで、確かなことは誰にもわかりません。
けれど、『古事記』を読んで、ひとつ確信を持てるのは、人と人との「あいだ」には、まだ生まれていない未来がある、ということです。
そして、その未来を生み出していくことこそが、「結び」なのだということです。

——今日も良い一日を♪

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