私たちは、つい「何が起きたか」に目を奪われがちです。しかし、本当に未来を変えるのは、出来事そのものではなく、それをどのような姿勢で受け止めるかです。歴史もまた、正解を探すためだけに学ぶものではありません。出来事の背後にある構造を読み解く姿勢を身につけることで、現代を生きる知恵が見えてきます。今日は「姿勢」という視点から、歴史と未来のつながりについて考えてみたいと思います。

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姿勢が整うと、同じ出来事の中にも新しい意味が見えてくる。
私たちは毎日、さまざまな出来事に出会います。
思い通りに進む日もあれば、失敗したり、誰かの言葉に傷ついたり、予定が狂ったりする日もあります。
けれど、大切なことは、
「出来事そのものが私たちを幸せにも不幸にもしているわけではない」
ということです。
なぜなら、同じ出来事でも、受け止める人によって、その意味は大きく変わるからです。
若い頃には「挫折」としか思えなかったことが、年月を経て振り返ると、「あれがあったから今がある」と思えることがあります。
反対に、順調だったと思えた出来事が、あとになって思わぬ落とし穴だったと気づくこともあります。
つまり、意味は出来事の中に固定されているものではなく、自分自身の姿勢によって見えてくるものなのです。
そうであれば、大切なのは、
「何が起きるか」よりも、
「どんな姿勢で向き合うか」です。
素直に学ぼうとする姿勢。
感謝を忘れない姿勢。
そして、未来をより良くしたいと願う姿勢です。
拙著『思想の時代は終わった』では、ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我在り」という言葉を取り上げ、そこから始まる十七世紀以降の個人主義が、現代において一つの限界を迎えていることを書きました。
ただ、いつも申し上げているように、私は個人主義そのものを「正しい」とか「間違っている」と言っているのではありません。
物事を定義し、その定義に当てはまらないものを「バツ」や「悪」と決めつけ、あらゆるものを二分してしまう考え方に限界がある、と申し上げているのです。
むしろ、「姿勢」ということについていえば、「我」をしっかり持つことが大切なのです。
なぜなら、自分自身の姿勢が整い、周囲との関係性が整うほど、昨日までは見えなかった学びや、人との結びつき、未来へのヒントが見えてくるからです。
歴史も同じです。
ただ昔の出来事を並べるだけなら、それは知識の披瀝(ひれき)にすぎません。
けれど、「未来をより良くするために学ぼう」という姿勢で歴史を見ると、一つひとつの出来事が、現代を生きる私たちへのメッセージとして立ち上がってきます。
あたりまえのことですが、それは歴史が変わったのではありません。
歴史の見え方が変わるということなのです。
私が歴史を探究するときも、いつも大切にしているのは、この「姿勢」です。
「織田信長は、本能寺の変で死んでいなかったかもしれない」。
これは、私の動画の中でも再生回数が伸びたテーマのひとつです。
理由は、信長が本能寺で亡くなったという記録は数多あるにもかかわらず、信長の遺体があがったという記録がどこにもないからです。
本当はどっちだったのか。
それはタイムマシンが発明される日まで、本当の答えは誰にもわからないことです。
ただ、「もし生きていたとするなら、そこで何が起きていたと考えられるのか」。
このことを考えることで、まったく新たな構造が見えてきます。
あるいは、関白秀次公の死に関して、私は淀君主犯説をご紹介しています。
けれど、公式記録は秀吉の命令ということになっています。
どっちが正しいのか、ということが、これまでの歴史の見方です。
それは歴史学者にとっては、大切な視点かもしれません。
けれど、我々現実世界に生きる者として大切なことは、仮にもし秀吉の命令ではなかったとしたならば、どのような構造が考えられるのか、にあります。
歴史上の出来事には、それが起きた構造があります。
現代の問題にも、それが起きる構造があります。
その構造を読み解く姿勢こそが、いまを生きる知恵になるのです。
だからこそ私は、「姿勢が大事なのです」と繰り返し申し上げているのです。
今日という一日も、どんな姿勢で向き合うかによって、新しい意味との出会いが待っているのかもしれません。
どうか皆様、今日も良い一日を。
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