困難に出会ったとき、出来事そのものをすぐに変えることはできなくても、そこに向き合う「姿勢」は変えることができます。姿勢が変われば視点が変わり、壁に見えていたものが「次にどうする?」という問いへ変わります。そしてこれは、AIが私たちの考えを驚くほど精緻化してくれる時代だからこそ、さらに重要になります。答えを得たときこそ、あえて別の場所へ立ってみる。困難の前では壁の前に立ち尽くさず、答えを得たときには、その答えを玉座にしない。 日本文化に見られる「視点を動かす」という発想から、AI時代に必要な姿勢を考えます。

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姿勢が変われば、困難は壁ではなく、次の一歩を考える問いに変わる。
何か困ったことがあったときに、姿勢を変えたところで、困難そのものが消えるわけではありません。
私たちは、何か困ったことに出会うと、つい、
「どうしてこんなことになったんだろう」
「なんで自分ばっかり」
「これは無理だ」
と感じてしまうものです。
けれど同じ出来事であっても、こちらの「姿勢」が変わると、その見え方まで変わることがあります。
たとえば、仕事で思わぬ失敗をしてしまったとします。
「失敗してしまった。もうダメだ」
という姿勢で見れば、その失敗は、自分の前に立ちはだかる大きな「壁」となります。
そこで、「次に同じことを起こさないためには、どうしたらよいだろう」
と姿勢を変えてみます。
するとそれまで「壁」にしか見えなかったものが、
「どこを変えればよいのか」
「何が足りなかったのか」
「別の方法はないか」
といった「問い」に変わります。
出来事そのものは、何も変わっていません。
変わったのは、こちらの姿勢です。
そして姿勢が変わったことで、同じ出来事でも、見る視点が変わったのです。
考えてみれば、「壁」とは、「ここから先には進めない」と思ったときに壁になります。
ところが、その前で、
「どうすれば先へ進めるだろう」
と問いを持った瞬間、それはもはや単なる壁ではありません。
乗り越えるのか、回り道するか、扉を探すか、そもそも別の道を選ぶか。
そこに、いくつもの可能性が生まれます。
つまり困難とは、必ずしも私たちの歩みを止めるものではないのです。
こちらの姿勢によっては、困難そのものが、次の一歩を考えるための問いになります。
人間関係でも同じです。
「どうしてあの人は、わかってくれないのだろう」
と思っているあいだは、相手は壁です。
けれど、
「どうすれば、お互いに気持ちよく過ごせるだろう」
「自分には見えていないものが、相手には見えているのではないか」
と問いを変えてみる。
すると、相手を変えようとする視点から、「自分と相手のあいだに何を育てるか」という視点へと動くことができます。
ここで大切なのは、何でも前向きに考えればよい、ということではありません。
困難を困難として認めたうえで、そこに立ち止まらないことです。
「これは壁だ」と決めつけるのではなく、
「ここから、どこへ向かう?」
と問い直すのです。
姿勢が変われば、視点が変わります。
視点が変われば、問いが変わります。
問いが変われば、選べる道が増えます。
そして、その中から次の一歩を選ぶことができるのです。
生きていれば、壁のように見える出来事が何度も現れます。
その壁の前で、自分が何を問うかは、自分で選ぶことです。
だからこそ、
姿勢が変われば、困難は壁ではなく、次の一歩を考える問いに変わる。
その問いの先に、昨日までは見えなかった新しい道が、見えてきます。
ここまでは、目の前に現れた「壁」に対して、姿勢を変えることを考えてきました。
けれど、もう一歩進めると、実は壁が見えていないときにこそ、意図的に姿勢を変えることも大切になります。
「これで正しい」
「これで完成した」
「答えが見つかった」
そう思ったときに、あえて別のところへ立ってみるのです。
すると、それまで見えていなかった新しい「壁」が見つかることがあります。
これは困難をわざわざ増やすという意味ではありません。
自分の答えをいったん離れ、別の観測点から見直してみるということです。
そして実は、この姿勢はAI時代にこそ、とても重要になるのではないかと思います。
どういうことかというと、AIは、利用者の曖昧な考えを整理し、きちんと文章化して見せてくれます。
当然、利用者は「そうだ!これだ!」と思います。
つまり、「問い」に対して、「答え」を提示してくれるのです。
これはとっても便利でありがたいことですが、実はそこに、落ちてはならない陥穽があります。
答えに満足してしまうのです。
たとえば自分の中にあるモヤっとした疑問をAIに渡します。
するとAIは、それを丁寧に言語化してくれます。
さらにそれを仮説Aとして、矛盾を減らし、論拠らしいものも補ってくれます。
そこで、さらに仮説A1をAIへ返すと、AIはそれをまた精緻化して、A2にしてくれます。
これを何十回も繰り返すと、一見すると、ものすごく立派な理論になったように見えます。
そして、自分の考え(仮説A)が、正しかったのだ、と思ってしまいがちです。
けれどそこで行われたことは、実は、
仮説A → 仮説A1 → 仮説A2 → 仮説A3
と、仮説Aの範囲でそれを深めただけで、仮説Aそのものが正しいかどうかを独立した観測点Bから検証したとは限らないのです。
AIとの対話によって仮説が精緻化されたことと、その仮説そのものが独立した観測点から検証されたことは、まったく別のことです。
AIは仮説を猛烈に精緻化してくれます。
しかし、だからといって仮説そのものが独立に検証されたわけではないのです。
だから人間が姿勢を変えて、AIに別の観測点を出させる。
姿勢を変えると、観測点が変わります。
すると、それまでAIによって証明されたと思っていた仮説Aが、まったく意味の違うものであったことが見えてくることがあります。
ひとつの観測点からみて、正しいと思えたことも、別な観測点から見ると、ぜんぜん別な答えになることがあるからです。
ここに日本文化の特徴があります。
日本文化は、視点を固定しないのです。
たとえばベルサイユ宮殿の庭園では、宮殿を中心に強い軸線が引かれ、左右対称の幾何学的な構成によって、ひとつの秩序だった世界が表現されています。
王の位置を中心として、世界を秩序づけて眺める構造です。
これに対し、日本庭園では、歩みを進めるにつれて景色そのものが変化していく構成が多く見られます。
こちらから見ればこの景色。
少し歩けば、また別の景色。
見る人が動くことによって、庭そのものの表情も変わっていきます。
視点を固定していないのです。
ひとつの観測面だけで世界を決めつけない。
こうした視点の動かし方も、日本文化の大きな特徴のひとつなのではないでしょうか。
だから、何かあったら姿勢を変えてみる。
すると、それまで「壁」に見えていたものが、別の場所からは「道」に見えてきます。
あるいは、正しいと思っていた答えの向こうに、新しい問いが見つかります。
大切なことは、ひとつの答えにたどり着いて、その玉座に座り込んでしまうことではありません。
姿勢を変え、観測点を動かしながら、それでもなお大切なものは何なのかを問い続けることです。
姿勢が変われば、困難は壁ではなく、次の一歩を考える問いに変わります。
困難の前では、壁の前に立ち尽くさない。 答えを得たときには、その答えを玉座にしない。
そしてその姿勢が、それまで自分には見えていなかった新しい景色へと私たちを連れていってくれるのではないでしょうか。
——今日も良い一日を♪
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