戦争の歴史を学ぶとき、私たちはつい「誰が勝ったのか」「誰が負けたのか」に目を向けがちです。けれど、本当に大切なことは別のところにあるのかもしれません。
終戦直前のビルマ戦線で、最後まで傷病兵の看護を続けた日赤新和歌山班の女性たち。彼女たちは敗走の中でも、飢えの中でも、死の中でも、自らの使命を手放しませんでした。
彼女たちは何を守ろうとしたのか。そして私たちは、その姿から何を受け継ぐべきなのか。
今回は、シッタン河畔に消えた白衣の天使たちの物語を通して、「出口設計」という視点から人間の尊厳について考えてみたいと思います。

シッタン河畔に消えた日赤新和歌山班

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以下は極限状態においても失われなかった人間の姿勢です。

彼女たちは勝つためにビルマへ行ったのではありません。
出世するためでも、お金のためでもありません。
まして、敵を倒すためですらありません。

彼女たちは、「傷ついた人を看護する」それだけのために、戦地へと赴きました。
そして敗走の中でも、飢えの中でも、死の中でも、最後までその役目を手放しませんでした。

ここに「出口設計」が持つ強靭さがあります。

日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
彼女たちは、編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールまで行き、そこから陸路でマレー半島を北上して、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院に配属となりました。

この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んだのです。

けれど、この時期から、戦況は日に日に悪化していきました。
翌昭和19年4月、病院長の笠原軍医中佐が転勤となり、後任として、松村長義軍医少佐が着任しました。
戦況の情況を憂慮した松村病院長は、4月26日、重症患者330名を30両のトラックに乗せて、南にあるラングーン(現ヤンゴン)に後送しました。
重症患者たちは、そこからさらに数隻の船に乗って海路モールメンの病院に収容されています。

一方、残った看護婦ら約300人と、患者たち約800人は、二日後の4月28日、護衛部隊のないまま、徒歩でペグー山脈を目指しました。
このとき、日赤新和歌山救護班の看護婦たちは、全員カーキ色の開襟シャツにモンペを穿き、胸に「赤十字のブローチを付け」、頭は三角巾でしばり、足にはズックを履いていました。

患者たちのなかで、自立歩行が困難な者は、牛車に乗せました。
けれど悪路です。牛車は舌を噛み切りそうなほどの揺れでした。
病院部隊の一行は、ペグーの山中でいったん集結し、第54師団との合流を待ちました。
けれど、一週間待機しても、師団は現れません。
松村病院長は、患者たちとともに、軍隊の護衛のないまま、マンダレー街道を突破してモールメンに向かうことを決意しました。
このとき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、そこからそれぞれの故郷に帰らせています。

このモールメンに向かう途中のことを、病院付けだった堀江政太郎曹長が手記に書いています。

 *

我々がパウンデーを出発したのは、私の記憶によれば26日の未明だった。
この日もどんよりとした、いまにも降ってきそうな、うっとうしい朝だった。
ペグー山系に入ると同時に、連日の雨で、泥には多くの将兵、入院患者が悩まされた。

急坂は滑る。何回転んだことか。
やっと平地になったと思ったら、今度は泥沼化し、思うように歩けない。
スネまでも埋まり、軍靴の底を剥がした者もだいぶいた様だった。

こんなときに、ある入院患者が大腿部切断で、松葉杖をついて懸命についてきていたが、元気な我々でさえ、泥沼に軍靴を取られて歩けないくらいなのに、この患者は、土中に深くめり込んだ杖を抜くのに必死だった。
見かねて、
「おい頑張れよ」と励ますと、
「ハイッ!」と返事はしていたが、おそらく内地には帰っていないであろう。

(中略)

雨の中をペグー山系にさしかかると、牛車の通行は不可能となり、(具合の悪かった看護婦の小上さんは腰に紐を付けて前からひっぱり、二人が脇から支え、ひとりが後ろから押し上げるという難行軍にみるみる衰弱し、5月9日に同僚らの見守る涙のうちに、病没した。

 *

5月18日、やっとのことでペグー山中を踏破した一行は、マンダレー街道を密かに横切り、シッタン河の東方のワダン村に集結しました。
ところがその日の午後4時頃、突然、銃撃を浴びたのです。

撃っていたのは、英国人兵たちでした。
引きつった顔や、銃を撃つ手の動きまで見えるほどの至近距離でした。
英国人達は、自動小銃や戦車砲を撃ちこんできました。

このとき松村病院長は、白刀を振りかざして英国軍めがけて突進しました。
これに軍医、衛生兵らが続きました。
突進した全員が還らぬ人となるなか、その隙に患者たちと看護婦たちは、村外れの田んぼに隠れました。
このとき、23名いた彼女たちは、18名に減ってしまいました。
5名は、この銃撃によって還らぬ人となったのです。

せっかく田んぼに隠れたのも束の間でした。
こんどは空から爆音が聞こえてきました。
このままでは敵に見つかってしまいます。
中尾敏子婦長は、とっさの判断で一行を前方の芦の原っぱへと走らせました。
けれどこのとき、婦長の一団と、児玉よし子副婦長の一団と、二つに別れてしまいました。

原っぱへと走る途中で、森下千代子さんが右肘を撃たれて重症を負いました。
中尾婦長は同行の男性に、
「手榴弾で皆を殺してくれ」と頼みました。

男性は、ためらいました。婦長は言いました。
「御国のため、敵に辱めを受ける前に潔く自決しましょう。
 捕虜になんかなりなさるな」
言い終わらないうちに、婦長は腹部を撃たれました。
まもなく出血多量で苦しい息となり、小さくて低いけれど、はっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命しました。

敵は草むらから、さかんに撃ってきました。
石橋澄子さんは、左大腿部を撃たれて意識を失い、池田八重さんも撃たれて死亡。
狩野重子さん、原すみ枝さん、田中君代さんの三人は、腰のベルトを外し、首にまきつけて自決しました。
中原忠子さんは、そばにいた男性と飛び出していって行方不明となりました。

芦の原っぱの向こうはシッタン川でした。
一部はビルマ人の小舟に乗せてもらうことができましたが、このとき山入貞子さんと、射場房子さんの二名が濁流にのまれて還らぬ人となりました。
出発当時、男女合わせて30名いた救護班は、川を渡り終えたときには6名に減っていました。

一行は、まる4日、山の中をさまよいました。
看護婦達は、疲労と空腹のため一歩も歩けなくなり、山の上に座り込んでしまいました。
「拳銃でひとおもいに殺して!」と言いました。
もちろん男性たちは、彼女たちを殺すことなどできません。
彼らは、彼女たちを山に残したまま、進むしかありませんでした。

戦いのあと、英国軍には、10名の看護婦が保護されました。
松山越子さん、西浦春江さん、肘に重症を受けた森下千代子さん、山本日出子さん、大腿部を撃たれた石橋澄子さんの5人は、まもなくインドに送られて、日本人抑留所で赤十字看護婦として勤務させられ、昭和21年7月に日本に復員することができました。

児玉よし子さんと丸沢定美さんの二人は、ラングーンの英国軍の収容所の中で、隠し持っていた青酸カリをあおって自決しました。

そのときの様子を、同じ収容所にいた田中博厚参謀が手記に残しています。

 *

この監獄で白衣の天使が二人自決しました。
敗走千里の途中、トングー付近の野戦病院に、最後まで将兵を看護していた白衣の天使のなか二人は、不幸にも逃げ遅れ、白衣も汚れてヨレヨレのまま、この監獄に収容されました。

血に飢えた肉にかつえた英兵達は、5,6人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女たちの下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪(どんらん)の瞳で見据えるのです。
これが2日も続いたその夜、乙女たちは隠し持っていた青酸カリで、神の御国へと旅立って行きました。

遺書には、切々と英人の暴虐を訴え、このままでは、いつどんな目に遭うやらわからない。
野戦病院で、母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
一生涯・・・短い20年の生涯でしたが、清く美しく生きられたことを、せめてもの慰めにします。
ただ、もういちどお父さんに会えなかったのが心残りです、と結んでありました。

*****

日赤新和歌山班の彼女たちは、最後まで看護婦として生きました。
重症患者を先に後送した判断も、補助看護婦たちを故郷へ帰した病院長も、白刀を振って突撃した松村病院長も、部下をかばい続けた中尾婦長も――みな、勝敗とは別の軸で動いていました。

着飾る余裕も、言い訳をする時間も、もうないのです。
そのとき残っていたのは、彼ら彼女たちが、何を本当に大切にしていたのか、それだけだったのではないでしょうか。

彼女たちは生き残れませんでした。
それは悲劇です。

けれど、遺書にあった一行を、私はどうしても忘れることができません。

「天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです」

この言葉に、怒りはありません。
憎しみもありません。
ただ、自分が何者であるかが、置かれています。

出口を見るとは、死を美化することではありません。
極限の中においても、なお失わないものを、見つめることです。

80年経った今も、その姿に私たちが心を動かされるのは、
彼女たちが最後まで「自分の出口」を手放さなかったからではないかと、私は思います。

参考図書:永田竜太郎著『紅染めし―従軍看護婦の手記』(1977年)

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