同じ景色を見ているはずなのに、人によってまったく違うものが見えることがあります。
それは、見ている対象が違うからではありません。
違うのは、その景色に向き合う「姿勢」です。
梅雨に咲くあじさいの七色の花を手がかりに、姿勢が世界の見え方をどう変えるのかを考えてみたいと思います。

違いを見るのではなく、根を見る姿勢

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姿勢は、見える景色を決めます。

同じものを見ても、人によって受け取る意味がまるで違うことがあります。
見ている対象が違うからではありません。
人は目で景色を見ているようでいて、実際には心の姿勢を通して世界を見ているからです。

疑いの姿勢で見れば、相手の中に欺きが見えます。
信頼の姿勢で見れば、相手の中に誠意が見えます。
奪う姿勢で見れば、世界は競争の場になります。
結ぶ姿勢で見れば、世界は共生の場になります。

姿勢とは、単なる立ち居振る舞いのことではありません。
どんな意味を受け取るかを決める、その人の内面の向きそのものです。

たとえば、梅雨の季節に咲くあじさい(紫陽花)。

あじさいは、青、紫、桃色、白と、さまざまな色を見せてくれます。
同じ株から咲いているのに、見るたびに違う表情を見せる。
私はあじさいを見るたびに、人の「姿勢」を思うのです。

みんな違う。
だけど、みんなでひとつ。
あじさいって、なんだか日本みたいです。

万葉集に、あじさいを詠んだ歌が二首あります。
ひとつが、大伴家持の歌です。

事(こと)とはぬ       事不問
木(き)すらあじさい(あじさゐ)木尚味狭藍
苐(もろと)らし       諸苐等之
諸練(ねり)の村戸(むらと)に練乃村戸二
詐(あざむ)かえけり     所詐来

一般には、この歌は、
「七色に色を変えるあじさいのように、私は村人の言葉に欺かれてやってきたのです」
という、なにやら嘆きのような歌の意味に解されています。

けれどこの歌の詞書きを見ると、この歌は、家持がプロポーズする相手の女性に贈った歌です。
そのようなときに、「欺かれました」などという歌を贈るでしょうか。

そこで、歌をもう一度、漢字そのものから見直してみると、まったく違う景色が見えてきます。
「苐」は弟ではなく、新芽です。
「練」は、良いものを選び出す意味です。
「詐」は、言葉を作り尽くすという意にも使われます。

すると、この歌は次のようになります。

*******
さまざまな木々。
七色に色づくあじさいの新芽。
その中から、もっとも尊いものを選び抜いた。
だから私は、言葉を尽くして、この想いを伝えたい。
*******

大伴家持は、古代における代々続く国防大臣の家柄です。
わが国の国防を一手に担う大伴家の惣領(跡取り息子)の家持が、
「私があなたを選んだのです」
と口説いているのです。
二人は結ばれ、生涯を伴にします。

このように、同じ歌でも、読む姿勢ひとつで、見える景色はまるで変わります。
ここで大切なことは、どちらの解釈が正しいか、ではありません。
どんな姿勢で向き合うか、です。

歴史も同じです。
歴史は、過去と向き合うことで、私たち自身の姿勢を映す鏡です。
だから、
対立の姿勢で見れば、歴史は争いの物語になります。
受け継ぐ姿勢で見れば、歴史は結びの物語になります。

結局のところ、あじさいの花と同じです。
あじさいの花は、ひとつの幹から、さまざまな色を咲かせます。
青もある。紫もある。淡い色もあれば、濃い色もある。
けれど、根はひとつなのです。

人もまた同じです。

考え方が違う。
意見が違う。
役割も違う。

それでも、根が同じなら、ともに咲くことができます。
けれど、根を見失えば、違いだけが目につきます。
だからこそ、姿勢が大事になるのです。

違いを見るのではなく、根を見る姿勢。
分断を見るのではなく、結びを見る姿勢。
その姿勢ひとつで、景色は争いにも、結びにもなるのです。

あじさいが七色に変わるように、世界はいつも多様な色を見せてくれます。

そのとき、私たちがどんな姿勢で立つのか。
そこに、私たちの未来がつくられていくのだと思います。

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