「熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」。額田王の勇壮な船出の歌として知られるこの一首には、実は斉明天皇の御製であり、「哀傷」の歌であったとする古い伝承が残されています。さらに「熟田津」の三文字を読み解くと、夜の船着き場に焚かれた篝火と、出征を待つ若者たちの姿が浮かび上がります。悲しみを知りながら、それでも決断しなければならない責任とは何か。そして、その決断の先に何を守るべきなのか。千三百六十余年前の万葉集の一首から、日本の国柄と、人々の安心と結びを残す「出口設計」を考えます。

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第一章 千三百六十余年前の、ある夜の光景
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(にぎたつに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな)
『万葉集』巻一・第八歌に収められた、有名な和歌です。
一般には額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌とされ、学校の教科書にもたびたび登場します。
意味は、おおむね次のように説明されます。
「熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、潮の具合も整った。さあ、いまこそ船を漕ぎ出そう」
いかにも勇壮な出航の歌です。
月が昇り、潮が満ち、いよいよ船団が出発する。
これから戦地へ向かう人々の心を奮い立たせる、力強い言葉が並んでいます。
けれども、この歌には、もう一つの読み方があります。
しかも、その読み方に立つと、歌の景色がまるで違って見えてくるのです。
そこにあるのは、ただ勇ましい船出の光景ではありません。
暗い水面に揺れる篝火。
出航のときを待つ人々。
故郷を離れ、戦地へ向かう若者たち。
そして、その人々を送り出さなければならない、一人の女性天皇の深い悲しみです。
なぜ、そのような情景が浮かび上がってくるのでしょうか。
まずは、歌の最初の言葉である「熟田津」から考えてみたいと思います。
第二章 「熟田津」という三文字が描く世界
「熟田津」は、一般には愛媛県松山市の道後温泉付近にあった船着き場の地名とされています。
正確な所在地については諸説がありますが、伊予の地にあった古代の港であることは広く知られています。
しかし、ここで一つ、考えてみたいことがあります。
それは、万葉集の原文に使われている漢字です。
原文は、次のように記されています。
熟田津尓 船乗世武登 月待者
潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
ここで注目したいのが、「熟田津」という三文字です。
「熟」という漢字には、熱を加えて煮る、煮え立つ、熟するという意味があります。
「田」は田地。
「津」は船着き場です。
もし、この三文字を単なる地名の表記としてだけではなく、その字義が描く情景として読んでみたら、どうなるでしょうか。
「熟」という文字から、炎や熱の光景を想像することができます。
「田」は、水田の広がる土地です。
「津」は、そこに船が着き、人々が乗り降りする場所です。
このように考えると、夜の田地を通る水路の傍らに、篝火が焚かれた臨時の船着き場という情景が浮かんできます。
これは一般的な地名解釈とは異なる、筆者独自の読み方です。
というのは、「熟田津」には別に「柔田津」とした漢字表記もあり、三文字の字義だけで、その場所に実際に篝火が焚かれていたと証明できるわけではないからです。
しかし、和歌を読むとき、漢字の意味を手がかりにして、そこにどのような情景があったのかを考えてみることには、十分な意味があります。
なぜなら、続く言葉が「月待者」、つまり「月待てば」だからです。
月を待っているということは、まだ月が十分に昇っていない時間帯だったと考えられます。
当時、電灯などありません。
夜の船着き場で、大勢の人々が乗船の準備を進めるなら、明かりが必要です。
松明や篝火が焚かれていたと想像することは、当時の状況として不自然ではありません。
その炎に照らされながら、人々が船に荷を積み、出航の支度を整えている。
兵士たちが集まり、互いに声を掛け合っている。
船の舷側には、暗い水が静かに揺れています。
そして、人々が月の出を待っている。
このように読んでみると、「熟田津」という三文字から、実に具体的な光景が立ち上がってくるのです。
ここで、歌の訳も少し変わります。
「田地を通る水路の船着き場には、篝火が焚かれている。
そこに出征する人々が集まり、乗船の支度を整えながら、月の出を待っている。
やがて潮の具合も整った。さあ、いまこそ船を漕ぎ出そう」
これは、辞書的な逐語訳ではなく、漢字の字義と歌の状況から情景を復元した解釈です。
しかし、こうして読むと、歌の中にあった人々の息遣いまで感じられるように思います。
第三章 『万葉集』の左注が語る、もう一人の作者
ところで、この歌について、もう一つ見逃すことのできないことがあります。
それが、『万葉集』に付された「左注」です。
歌の題詞には「額田王歌」とあります。
ところが、左注には、山上憶良の『類聚歌林』を調べると、異なる伝承があると記されています。
重要な部分は次の通りです。
天皇御覧昔日猶存之物
當時忽起感愛之情
所以因製歌詠為之哀傷也
即此歌者天皇御製焉
但額田王歌者別有四首
現代語に直すと、おおむね次のようになります。
「天皇は、昔と変わらず残っている風物を御覧になり、たちまち懐かしさと愛惜の情を起こされた。
そのため歌をお作りになり、哀傷の思いを詠まれた。
つまり、この歌は天皇の御製である。
ただし、額田王の歌は別に四首ある。」
ここでいう天皇とは、第37代斉明天皇です。
斉明天皇は、第35代皇極天皇として一度即位され、その後、再び皇位に就かれた女性天皇です。
つまり、『万葉集』には、この歌を額田王の作とする伝承と、斉明天皇の御製とする伝承の両方が残されているのです。
どちらが実際の作者であったかについては、慎重に考えなければなりません。
しかし、ここで重要なことは、左注に**「哀傷」**と記されていることです。
勇壮な出航の歌として知られるこの一首について、古い伝承では「悲しみの思いが込められた歌」と説明しているのです。
いったい、斉明天皇は何を悲しまれたのでしょうか。
第四章 夫と訪れた、あの日の伊予の湯
時は西暦661年、斉明天皇七年のことです。
朝鮮半島では、前年に百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされ、百済の再興を目指す人々が日本に救援を求めていました。
日本の朝廷は、百済救援のために援軍を派遣する方針を取りました。
斉明天皇は中大兄皇子らとともに、西へ向かわれました。
その途中で船団が立ち寄ったのが、伊予の熟田津でした。
実は、斉明天皇にとって、この地は初めて訪れる場所ではありません。
まだ宝皇后(たからのきさき)と呼ばれていた頃、夫である舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、伊予の湯宮を訪れたことがあったのです。
左注は、昔のその行幸にも触れています。
当時の旅が実際にどのようなものであったのか、細かな記録は残されていません。
けれど、夫とともに訪れた思い出の地であったことは、左注から読み取れます。
ここからは、少し想像を交えてみましょう。
かつてこの場所を訪れたときには、夫がそばにおいでになりました。
温かな湯があり、穏やかな海があり、土地の人々の暮らしがありました。
旅の途中で交わされた何気ない言葉もあったことでしょう。
夕暮れの景色をともに眺めたこともあったかもしれません。
ところが、いまは違います。
舒明天皇は、すでに崩御されています。
そして、斉明天皇は、ふたたび訪れたこの地から、戦いのために大勢の人々を西へ向かわせなければならない。
かつての旅と、いまの旅。
同じ伊予の地に立ちながら、その意味はまったく異なっています。
左注にある「昔日猶存之物」は、昔と変わらず残っている風物を意味します。
山も海も、土地の姿も、昔と変わらない。
しかし、最愛の夫はもういない。
そして、いま目の前には、戦地へ向かおうとする大勢の若者たちがいる。
その光景を前にして、斉明天皇は、どのような思いを抱かれたのでしょうか。
左注が直接語っている「哀傷」は、昔の風物に触れて生まれた感愛の情です。
けれども、そこには、戦争へ向かう人々への思いも重なっていたのではないでしょうか。
このように考えると、この歌は、まったく違った響きを持ち始めます。
第五章 篝火の下に集まった若者たち
もう一度、熟田津の夜に戻ってみましょう。
田地を通る水路の傍らに、篝火が焚かれています。
炎に照らされた船着き場には、出航を待つ人々が集まっています。
兵士たちは、これから海を渡り、戦いに向かいます。
その一人ひとりに、暮らしがあります。
父母がいます。
妻や子がいる人もいたことでしょう。
故郷には、帰りを待つ人がいます。
けれど、誰もが、無事に帰れるとは限らないのです。
たとえ戦いに勝ったとしても、傷つく人が出ます。
命を失う人も出ます。
それは、兵士本人だけの問題ではありません。
その帰りを待つ家族にとっても、取り返しのつかない悲しみとなります。
国家の指導者が戦争を決断するとき、その決断の先には、必ずこのような人々の生命があります。
もちろん、当時の百済救援には、外交関係や日本の安全保障をめぐる重大な事情がありました。
戦わなければ平和が守られるというほど、国際政治は単純ではありません。
しかし、戦いを必要と判断することと、戦いによって失われる生命を惜しむことは、決して矛盾しません。
むしろ、その両方を引き受けるところに、本当の意味での責任があります。
このように考えたとき、熟田津の歌にある「今は漕ぎ出でな」という言葉の重みが変わります。
悲しみがないから、船を出すのではない。
不安がないから、出航するのでもない。
悲しみも不安も、すべて引き受けたうえで、それでも船を出さなければならない。
篝火に照らされた若者たちを前に、斉明天皇は、深い哀傷を抱きながら、その決断をなされたのではないでしょうか。
もちろん、これは左注と当時の状況を重ねた一つの考察です。
しかし、そのように読むと、この歌に込められた責任の重さが、胸に迫ってくるのです。
第六章 「誰が詠んだか」よりも大切なこと
ここで、もう一つ興味深いことがあります。
『万葉集』の題詞には「額田王歌」。
一方、左注には「天皇御製」。
なぜ、この二つの伝承が同じ歌に残されたのでしょうか。
もちろん、その経緯を確定することはできません。
けれどひとつの可能性として、額田王が斉明天皇の御心を受けて歌を詠んだことも考えられます。
あるいは、斉明天皇が詠まれた歌を、額田王が人々の前で披露した可能性も考えられます。
さらに想像を広げれば、
斉明天皇がご自身の思いを歌に詠まれた。
けれど、天皇というお立場上、弱腰と受け止められることにも配慮しなければならない。
だから、もしかすると、信頼する部下の額田王に、
「額田、この歌を、おまえが詠んだことにしてはくれぬか」
と、歌を託したのかもしれない。
もとより、これを裏づける直接の史料があるわけではありません。
しかし、もしそうであったなら、そこには一つの重要な姿勢が見えてきます。
それは、斉明天皇の「おほみたから」である臣民への深く温かなまなざしです。
一方で、出征する兵士たちには、勇気が必要です。
一方で、天皇の大御心には、戦地へ向かう人々の生命を惜しむ深い思いがあった。
その二つを、歌という形で結んだ。
だから、この歌は「哀傷歌」なのだ、と。
そのような可能性を考えてみることも、古典を読む楽しみの一つです。
ここには、現代にも通じる大切な問いがあります。
人は、何のために言葉を発するのでしょうか。
自分を立派に見せるためでしょうか。
自分の正しさを証明するためでしょうか。
それとも、誰かを支え、その人が前に進む力を生み出すためでしょうか。
言葉の価値は、発した人の名声だけで決まるものではありません。
その言葉によって、人々の心に何が生まれ、どのような未来が開かれるのか。
そこにこそ、言葉の本当の価値があるのだと思います。
第七章 戦いに勝つことと、未来を守ること
ここで考えてみたいのが、「勝利」という言葉です。
戦いは、当然、勝利を目指すものです。
企業が競争すれば、競争に勝とうとします。
人間関係の対立でも、自分の正しさを認めさせようとすることがあります。
しかし、勝ったあとに何が残るのでしょう。
戦争に勝利しても、人々の暮らしが破壊され、憎しみだけが残ることがあります。
企業が競争に勝っても、従業員が疲れ果て、顧客との信頼を失い、組織そのものが弱くなることもあります。
家庭でも、言い争いに勝った結果、大切な人との関係を壊してしまうことがあります。
つまり、勝つことと、良い未来をつくることは、必ずしも同じではないのです。
ここで必要になるのが、「出口設計(Exit Design)」という考え方です。
出口設計では、三つの問いを大切にします。
「最後どうなる?」
「壊れない?」
「みんな笑える?」
そして、この三つを貫く、もっと根本的な問いがあります。
「その未来に、人々の安心と、結びは残っているか。」
この問いを、熟田津の船出に重ねてみます。
船を出すことが目的なのではありません。
戦いに勝つことだけが、最終目的でもありません。
その先に、守るべき国があり、人々の暮らしがあり、子供たちの未来があります。
国は、単なる土地ではありません。
そこに暮らす人々がいて、家族がいて、仕事があり、日々の営みがあります。
子供が育ち、若者が働き、年老いた人が安心して暮らしていける。
そのような暮らしを守るためにこそ、国という仕組みがあるはずです。
そうであれば、責任ある指導者には、目の前の勝敗だけではなく、その先に何が残るのかを考える姿勢が求められます。
その意味で、斉明天皇の哀傷という伝承は、私たちに大切な問いを投げかけているのではないでしょうか。
戦いに向かうときでさえ、人々の生命を惜しむ心を失ってはならない。
強さとは、悲しみを感じなくなることではないものであるはずです。
第八章 二十年で天国は地獄に、地獄は天国に変わる
歴史を振り返ると、わずか二十年ほどで、社会の姿が大きく変わることがあります。
第一次世界大戦が終結したのは、1918年です。
日本は戦争特需によって大きな経済発展を経験しました。
都市文化が花開き、モダンボーイ、モダンガールと呼ばれる若者たちが、新しい服装や生活様式を楽しんでいました。
しかし、その後、日本は大戦後の反動不況、1923年の関東大震災、昭和初期の金融恐慌や世界恐慌、農村の困窮などを経験します。
1936年には二・二六事件が起こり、翌1937年には日中間の戦争が全面化していきました。
1918年から、わずか十九年のことです。
社会の景色は、短い間に大きく変わってしまいました。
そして1945年、日本は終戦を迎えました。
都市は焼け、多くの人々が家を失い、食べるものにも苦労する日々が続きました。
ところが、その十九年後の1964年には、東京オリンピックが開催されています。
新幹線が走り、高速道路が整備され、世界中から大勢の人々を迎えるまでになりました。
もちろん、その間には無数の人々の努力がありました。
失敗があり、苦労があり、工夫があり、人と人との協力がありました。
それでも、わずか二十年ほどで、社会の姿が大きく変わったことは確かです。
豊かな時代が、いつまでも続くとは限りません。
反対に、苦しい時代が、いつまでも続くとも限りません。
未来は、まだ決まっていないのです。
だからこそ、いま何を守り、どのような未来をつくろうとするのかが大切になります。
過去を嘆くだけでは、未来は生まれません。
現在の問題を非難するだけでも、未来は生まれません。
問題があるなら、その問題を経験したからこそ、前よりも良い未来を始められるようにする。
そこにこそ、歴史から学ぶ意味があるのだと、私は思います。
第九章 「シラス」という国の理想
日本には古くから、天皇が天下を「シラス」という考え方があります。
もちろん「シラス」という言葉の歴史的な意味や用法については、慎重な検討が必要です。
そのうえで、日本の統治の理想を考えるとき、権力を単に所有することではなく、人々の暮らしを知り、その安寧を願うという観測点は、とても大切なことです。
国家の指導者が、民を単なる労働力や兵力として扱うのか。
それとも、一人ひとりに暮らしがあり、家族があり、喜びや悲しみを持つ人間として見るのか。
その違いは、国のあり方そのものを変えます。
一人ひとりの生命を大切にするからこそ、その人々を守るためには、時として厳しい決断も必要になります。
けれど、その決断が避けられないときであっても、失われる生命への哀惜を忘れない。
もし熟田津の歌に、斉明天皇のそのような御心が込められていたとしたら、そこには、日本が歴史の中で育もうとしてきた統治の理想を読み取ることができるといえるのではないでしょうか。
もちろん、日本の歴史が常にその理想通りに進んだわけではありません。
争いもありました。
権力の濫用もありました。
政治の失敗もあり、人々が苦しんだ時代もありました。
けれど、現実に問題があったことと、目指してきた理想の価値とは、分けて考える必要があります。
大切なことは、問題がないことではありません。
問題が起きたとき、何を基準にして、どのような未来へ向かおうとするのかです。
その基準として、人々の安心と結びを大切にする。
それが、いまの日本にとっても、最も必要な姿勢ではないでしょうか。
第十章 吉田松陰が信じた、日本の未来
吉田松陰が水戸藩郷士、堀江克之助に送った手紙が遺されています。
「天照の神勅に、
『日嗣之隆興 天壞無窮』と有之候所、
神勅相違なければ日本は未だ亡びず。
日本未だ亡びざれば、
正気重て発生の時は必ずある也。
只今の時勢に頓着するは
神勅を疑の罪軽からざる也」
《現代語訳》
天照大御神のご神勅(しんちょく)に、「日嗣(ひつぎ)の隆興(さかえ)まさむこと、天壞(あめつち)とともに無窮(きはまりなかる)べし」とあります。そしてご神勅の通り、日本はいまだ滅んでいません。
日本がいまだ滅んでいないなら、日本が正気を取り戻すときが必ずやってきます。
ただいまの時事問題に頓着(とんちゃく)して、簡単に日本が滅びると言うのは、ご神勅を疑うというたいへん重い罪です。
手紙は、この日本がまだ滅びていないならば、正しい気風が再び生まれるときは、必ずある。
そうした信念を語っています。
もちろん、ただ信じているだけで、未来が良くなるわけではありません。
何もしなければ、社会が良くなる保証などありません。
しかし、未来への希望を失えば、人は行動する力を失ってしまいます。
反対に、未来への可能性を信じることができれば、困難な状況にあっても、いまできることを考えられます。
信じるからこそ、行動する。
希望があるからこそ、責任を引き受ける。
そして、自分一人でできないことを、人と結ばれることによって実現していく。
それが、未来をつくるということではないでしょうか。
歴史は、何もしなくても自動的に正しい方向へ進むものではありません。
歴史をつくるのは、その時代を生きる人々です。
そして、その人々が何を大切にして生きるのかによって、未来の姿は変わっていきます。
第十一章 月を待ち、潮を待つ
ここで、再び熟田津の夜に戻ります。
篝火が焚かれています。
その明かりのもとで、人々が船に乗る支度を整えています。
荷が積み込まれ、兵士たちが集まり、出航のときを待っています。
そして、やがて月が昇ります。
潮の具合も整います。
「潮もかなひぬ」
いよいよ、船を出せるときが来ました。
ここで考えてみたいのは、この歌にある「待つ」という言葉です。
月を待つ。
潮を待つ。
出航に必要な条件が整うのを待つ。
ただ何もせずに待っているのではありません。
船が用意され、荷は積み込まれ、人々は出発の準備を整えています。
そのうえで、時機が来るのを待っているのです。
これは、現代の私たちにとっても、大切なことだと思います。
人生には、どうしても前へ進まなければならないときがあります。
けれども、何もかも思い通りになるまで待っていては、いつまでたっても船を出せません。
かといって、何の備えもなく、ただ勢いだけで漕ぎ出せば、船そのものを失うことにもなりかねません。
大切なことは、何のために船を出すのかを見失わないこと。
必要な準備を怠らずに整えること。
そして、時機が来たときに、勇気を持って決断し、行動することです。
これが、出口設計の基本です。
出口を考えるということは、未来を自分の思い通りに支配することではありません。
思い通りにならないことが起きても、そこからまた歩き始められる未来を考えることです。
そのために、最悪の事態にも備え、人々の安心を確保し、互いに結ばれながら前に進む。
月を待つことも、潮を待つことも、決して臆病なことではありません。
それは、船を無事に目的地へ届けるための、大切な準備なのです。
終章 篝火は、何のために焚かれていたのか
最後に、もう一度、あの夜の情景を思い浮かべてみます。
伊予の熟田津。
暗い水面。
田地を通る水路の傍らには、篝火が焚かれています。
その明かりの中に、出航を待つ人々の姿があります。
やがて月が昇り、潮の具合が整います。
「今は漕ぎ出でな」
力強い言葉です。
けれども、その言葉の奥には、昔と変わらない伊予の風物を御覧になり、感愛の情を起こして哀傷された斉明天皇のお姿が重なります。
かつて夫と訪れた平和で楽しい思い出の土地。
いまは、そこから戦いに向かう兵士たちを送り出さなければならない。
無事でいてほしい。
無事に帰ってきてほしい。
けれど、その希望がすべて叶うことはないとわかっています。
その悲しみを抱えながら、なお船を送り出すのです。
それは、悲しみを知らない人の強さではありません。
悲しみを知っているからこそ、守るべき未来を思う人の強さです。
責任とは、悲しみを感じないことではなく、悲しみまで引き受けて未来への決断をすることなのです。
ここで、最初に考えた「熟田津」という三文字に戻ります。
「熟」という字から篝火を想像し、「田」から人々の暮らす土地を思い、「津」から船出の場所を思い浮かべる。
そうして見えてきた炎は、ただ船着き場を明るくするためだけのものだったのでしょうか。
もちろん、実際の篝火は、夜の作業のための明かりだったことでしょう。
しかし、その炎に一つの象徴を重ねてみたいのです。
篝火では、暗闇をすべて消すことはできません。
遠くの海の向こうまで照らすこともできません。
けれど、足元を照らすことはできます。
そこにいる人々の顔を照らすことができます。
そして、これから船に乗る人々が、互いの姿を確かめ合うこともできます。
そこには、間違いなく、命を持っていまを生きている人々の顔があります。
どれほど優れた指導者であっても、未来のすべてを見通すことなどできません。
どれほど周到に準備しても、思い通りにならないことは起こります。
しかし、だからといって、何もできないわけではありません。
いまできることをする。
守るべきものを確かめる。
互いに声を掛け合い、安心をつくる。
そして、時機が来たら、勇気を持って漕ぎ出す。
そのとき、人と人との結びが、未来へ向かう力になります。
千三百六十余年前の熟田津。
そこに実際にどのような明かりが焚かれていたのか、確かなことはわかりません。
けれど「熟田津」という三文字に篝火の情景を重ねて読むとき、暗い水面を照らす炎の向こうに、歴史を生きた人々の姿が浮かんできます。
そして、そこから、いまを生きる私たちにとっても大切な問いが生まれます。
「その船の向かう未来に、人々の安心と、結びは残っているのですか?」
悲しみを知らないから、前に進むのではありません。
悲しみを知っているからこそ、その先に守るべき未来を思う。
守るべき未来があるからこそ、戦わなければならない。
熟田津の篝火は、未来のすべてを照らすことはできません。
けれど、人々がともに歩き出すための足元を照らすことはできます。
未来が見えないときこそ、足元に明かりを灯す。
そして、人と結ばれ、潮のかなうときを待って、勇気を持って漕ぎ出す。
壱燈照隅
萬燈照国
それが、歴史から学び、未来をつくるということなのではないでしょうか。
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